昭和天皇、平和への祈り | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
(日本協議会・日本青年協議会の公式見解ではありません。)

 間もなく4月29日、「昭和の日」を迎えます。


 昭和天皇をお偲びするよすがとして、昨年の「祖国と青年」10月号で鈴木編集長が書かれた「両陛下、平和への祈り」から、陛下の平和への御心が昭和天皇のそれをお継ぎになられたものであることに触れた文章をご紹介します。



 満州事変に関連して、陛下は御即位二十年に際してのお言葉(平成二十一年)で、次のように述べておられる。


「私がむしろ心配なのは、次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということです。昭和の時代は、非常に厳しい状況の下で始まりました。昭和三年、一九二八年昭和天皇の即位の礼が行われる前に起こったのが、張作霖爆殺事件でしたし、三年後には満州事変が起こり、先の大戦に至るまでの道のりが始まりました。第一次世界大戦のベルダンの古戦場を訪れ、戦場の悲惨な光景に接して平和の大切さを肝に銘じられた昭和天皇にとって誠に不本意な歴史であったのではないかと察しております。昭和の六十有余年は私どもに様々な教訓を与えてくれます。過去の歴史的事実を十分に知って未来に備えることが大切と思います」


 このお言葉にはっきりと表れているのは、陛下は昭和天皇のお立場に立って歴史を見ておられる、ということである。昭和天皇が昭和三年に即位され、即位の礼(十一月十日)の前に起こったのが張作霖爆殺事件(六月四日)であり、その三年後に起こったのが満州事変なのである。満州事変は昭和の御代の始まりを象徴し、その後の戦争への道を暗示する出来事であった。東京裁判史観、十五年戦争史観といったこととは関係あるまい。


 陛下はお言葉の中で、さらに、昭和天皇がフランスのベルダンで「戦場の悲惨な光景に接して平和の大切さを肝に銘じられた」ことにも言及されている。


 昭和天皇がベルダンをご訪問になったのは、皇太子時代の大正十年(一九二一)六月のことで、ヨーロッパご歴訪(イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、イタリア)の一環としてである。フランスのベルサイユ宮殿で第一次大戦の講和条約が結ばれたのが二年前の一九一九年六月だから、大戦で特に深い傷を被ったフランス、ベルギーでは、戦跡の視察に多くの時間が割かれた。


 その中でも、フランスのベルダンは最大の激戦地であった。ペタン将軍率いる仏軍は、皇太子ウィルヘルム率いる独軍の猛攻をかろうじてくい止めたが、両軍の犠牲は甚大で、仏軍は三十六万二千人、独軍は三十三万六千人、合わせて約七十万人の死傷者を出した。「古戦場」と言うにはあまりに生々しい戦争の傷跡をご覧になり、昭和天皇はどのような思いを抱かれたであろうか。


 半藤一利氏によれば、『昭和天皇実録』には「皇太子は戦跡御視察中、戦争というものは実に悲惨なものだ、との感想を漏らされた」(大正十年六月二十五日)とあるという。


 ベルダンの光景を胸に焼きつれられた昭和天皇は、昭和の御代にあって一貫して平和を祈られ、戦争回避を願われたが、それでもなお、わが国は戦争に突入せざるを得なかった。そのことは、昭和天皇にとって「誠に不本意な歴史」であったに相違ない。


 しかも、さきの大戦では、結果としてベルダンの死傷者を遥かに超える、三百万人以上にものぼる夥しい犠牲を出してしまった。昭和天皇が終戦の御聖断を下されたのも、「わたし自身はいかになろうとも、わたしは国民の生命を助けたい」(昭和二十年八月九日、御前会議でのお言葉)とのご一念であった。


 昭和天皇の歌のご相談役を務めた岡野弘彦氏によれば、昭和天皇のご晩年のある日、昭和天皇の御製の原稿が、徳川義寛侍従長を通して岡野氏のもとに届けられたという。それは一首の御製を何通りかに記したもので、「どうしてもこの歌の形を決めておきたい」との思し召しであった。その一首は、終戦時の次の御製であったという。


 身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて


 昭和天皇が、ご不例の床にあって、最後まで御心に留めておられたのがこの一首であった。昨年八月、『昭和天皇実録』が奉呈され、陛下は終戦七十年の年を、昭和天皇の御心を深く偲びつつお過ごしになられたが、今上陛下の平和を願われる強いお気持ちも、こうした昭和天皇の御心の上にあるものと拝察する。