昭和天皇のエピソード② | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
(日本協議会・日本青年協議会の公式見解ではありません。)

 昨日に引き続き、「祖国と青年」4月号から「御召艦『榛名』の探照燈」をご紹介します。出典は、同じく『昭和っ子は謳う』です。



 もう一つの逸話に触れましょう。


 昭和六年十一月、熊本で陸軍特別大演習が挙行された時のことです。十一月八日からはじまった大演習のあと、十七日には阿蘇山へ、そして鹿児島へ行幸され、二十一日に還御された二週間の旅路でした。その帰路十九日、御召艦「榛名」でのことです。


 日没が迫り、桜島は夕陽に真紅に染まっていました。その中を榛名はゆっくり鹿児島湾を南下、やがて左舷に大隅半島を、右舷に薩摩半島を、ともに十余キロかなたに黒々と望見できる頃、侍従たちは食事をとりはじめました。艦はすでに闇の中を進んでいるはずです。陛下も、御座所の司令長官室でおくつろぎのはずでした。


 甘露寺侍従の話によりますと、その時ふと木下道雄侍従が席を立って艦橋へ出ていったというのです。もしかして、御召艦のそばにまだ奉送の小舟がいないだろうか、もしいるとすれば答礼をしてあげたい――木下侍従はそう考えたのだろう、と甘露寺さんは言っておられました。ところが、予想もしなかったことをその直後、目撃したのです。前出の回想録によれば――。


「……ふと気がつくと、誰もいないと思った甲板に陛下がいらっしゃるのである。ただおひとり右舷の手摺近くに、海上に向かってきちんと直立不動の姿勢をとられ挙手の礼をしておられる。木下侍従は近くに奉送迎の舟でも来ているのかと見まわしてみたが何も見えない。闇黒々の海と白い航跡ばかりである。望遠鏡のところへ行って陛下のお向きになっていらっしゃる方向を見ると、はるか薩摩半島の海岸と思われるあたりに、ポツポツとした灯が一線に連らなっているのが見える。そのやや上には何町かおきに、大きな火の塊が見えるのである。一線の火は、海岸に並んだ人々が提灯を振っているのであろう。また、上方の火の塊は山の上でかがり火を焚いているらしい。時刻を計ると、指宿に近い瀬々串か喜入の沖合を通っているらしく、海岸からは五六浬離れていると見られる。火光さえ望遠鏡でようやく認めうるのだから、陵地からこの艦の姿が見えるはずがない。


 それでもあの村人たちは時間を見計らって、見えざる御召艦、見えざる陛下をお見送りしようとしているのである。なんという美しい、尊い気持であろう。陛下も、その真心を直感されたのであろう。見えざる国民に対して、挙手の答礼を賜わっていられるのである。木下はそれを拝して、いても立ってもいられない気持に駆られた。あの陛下のお心をなんとかして伝えたい――」


 木下侍従は感動にふるえながら、夢中で艦長室に飛び込んだといいます。そして、なんとかしてこの陛下のことを海岸の人たちに知らせる方法はないものか、無電で知らせるのはどうだろうか、いやそれでは今夜のうちに到底間に合わない……二人は胸を熱くしながら思案にくれたようです。


 その時、艦長が顔を輝かせながらこう叫んだのです。


「探照燈を点けましょう。そうすれば御召艦の通過していることがわかります」


 甘露寺さんはその直後の模様を、次のように書いておられます――。


「……艦長は直ちに命令を下した。全艦の電燈がいっせいに点けられ、同時に全艦の探照燈が一時にパッと光芒を放った。さながら海上の不夜城の壮観である。何万燭光の白い光の束は、闇を截って右舷薩摩半島、左舷大隅半島の海岸を、丘陵をくりかえしくりかえしゆっくりと撫でるように照射した。そのことを知った供奉員も非番の乗組員たちも甲板に出て、この涙ぐましい光景を眺めながら感激に浸ったのであった。もちろん陸地の人々も、真心の通じた奇跡の出現にどっと歓呼の声を挙げたことだろう。砂浜の上で、たたらを踏んで喜ぶ老幼男女の姿が目に見えるようであった。そして心なしか、潮騒にまじって万歳の讐きが聞こえてくるような錯覚を覚えたのであった」