昭和天皇のエピソード① | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
(日本協議会・日本青年協議会の公式見解ではありません。)

 4月29日は「昭和の日」。


 今年は終戦70年ということで、「祖国と青年」4月号では、特に戦前・戦中の昭和天皇のエピソードを4編紹介しています。


 今日はそのうちの1つ、「8万学徒と雨に打たれて」をご紹介します。出典は南雅也著『昭和っ子は謳う』です。



 多くのご親閲、ご統監の間には、青年学徒たちに対するご親閲も二度、三度となされており、年表によると、昭和三年十二月十五日に在京八万勤労学徒に、昭和五年十一月三日に全国青年代表三万余に、昭和十四年五月二十二日に全国学生・生徒代表三万二千余に、そして昭和十六年五月二十二日は全国青年学校生徒三万五千余にと、それぞれ宮城前広場で親しく会われております。


 こういう折々での、先帝陛下にまつわるエピソードも多いようですが、その中でも特に胸打たれた昭和三年ご即位の大礼の時の、陛下のエピソードに触れたいと思うのです。


 それは陛下が、関東一円の勤労青年学徒八万余に対してご親閲された時の、陛下と青年たちの涙の出るような交流なのです。私は戦後になって、その時の侍従・甘露寺受長翁から直接承り、また、今村均大将(当時中佐・ご親閲指揮官)からも、その感動の場面を伺う機会がありました。


 私は子供の頃、天皇陛下の歯簿を拝した折、思わず陛下のお目と目が合ってしまった記憶を、前述したように今も持ちつづけている人間ですが、このお話を知った時、そこに参加した青年たちはどんなに「天皇」を身近に感じたことだろうか、そして今の人たちには理解して頂けないかもしれませんが、「君民一体」ということをどれほど肌身に感じたことだろう、としみじみ思ったことでした。


 この十二月十五日というご親閲の日取り決定は、じつは宮内省の一方的なとりきめではなかったのです。ご即位大礼のおこなわれたその年十二月は、延べ四十五回にも及ぶ大礼の諸儀が執行されるという、陛下にとってまことにご多忙なひと月でした。


 その中で、東京市と近隣二、三の県はご親閲日を十四日、参加学徒約四万人と宮内省に請願していました。ところが、親閲の儀を聞き知った他の近県からも、ぞくぞくと参加申込みが殺到したのです。そのため、当初、四万と予想していた学徒は八万人に、四十分と予定していたご親閲時間は一時間二十分と予想されました。そればかりか、今度は十四日を十五日に変更願えないか、という申し入れです。十五日が公休日、という青年が多いのでぜひなんとか、というわけでした。


 十五日は賢所の祭事のある日で、宮中儀式では夜を徹する最重要の祭事です。陛下はほとんど眠れない日に当たっているのです。しかし陛下は、「なるべく多くの青年の心をかなえよ」と、躊躇する侍従たちをよそに十五日を勅許されたといいます。


 こうしてその当日がきました。ところが早朝より、寒風の中に細雨が降りしきるあいにくの天気となりました。しかし「晴雨に拘らず実施」とのご聖旨を拝している若人たちは、冷雨なにするものぞとぞくぞくと二重橋広場に参集し、分列隊形を整えていたのです。その彼らの目の前には、金色の菊花紋章まばゆい天幕におおわれた王座が、篠つく雨の中に見えます。


 間もなくご親閲ははじまろうとしていました。ところが、定刻二時の直前になって突然、この玉座の天幕が宮内省係官たちの手によって取り除かれてしまったのです。青年たちの間に、ざわめきが潮のように起こりました。だが間もなく、侍従が走り来たって、


「聖上陛下に於かせられては、朝来の雨に打たるゝ多数青年の身を案じ給ひ、朕のみ独り天幕の下にあるべきでないとの思召により、内匠寮準備の天幕を徹すべきことを命ぜられ給ふた」(東京府教育研究会編『御親閲を仰ぎて』)


 と主催者側委員に伝達したのでした。その時の状景を、甘露寺侍従は回想録『背廣の天皇』(昭和三十二年九月刊・東西文明社)にこう綴っておられます。


「総指揮に当る陸軍の今村均中佐も驚いた。『どうしたのです? お取りやめですか』『いいえ。お上の思召しによって、テントを取払っただけです』『えッ? 陛下の思召し? ――そうですかッ』みるみる今村中佐の顔は感激に赤らんだ。彼はすぐ伝令を呼ぶと、各校、各団体の引率者の許へ伝えさせた。『ただいま、陛下の思召しによって王座のテントは取り除かれました。ご親閲は定刻に開始されます』伝令が四方に飛ぶと、八万の若人のざわめきはピタリとやみ、満場の空気はピリリと引き締まっていった」


 感激のハプニングはこのことだけにとどまらなかったのです。八万の学徒がひとしく心の打ち震えるような思いにその直後、打たれることになるのです。甘露寺侍従の記述を再びお借りしましょう。


「午後二時、君が代の喇叭吹奏裡に、小豆色の自動車が式場に到着した。陛下が諸員最敬礼のうちに、自動車をお出になるその後から、野口侍従が走り寄って雨外套をお着せした。ところが、まさにご親閲が始まろうという瞬間、陛下は雨外套のボタンを外されると、サッと後ろにお捨てになった。後に侍立していた奈良侍従武官長が、かろうじてそれを受け留めたがもうどうすることもできない。陛下は既に行進してくる第一隊の『頭右』の敬礼に挙手の答礼を与えていらっしゃる。それを拝見して、上原勇作老元帥がすぐ外套を脱ぎ捨てた。つづいて、皇族方も大官達も一斉に脱ぎ捨てた。なぜ、陛下は雨外套をお脱ぎになったのであろうか――。行進してくる若人たちに目をやると、彼らは先ほどまで着けていた雨具を脱いでいる。テントが取り払われたのを見て、脱いでしまったのだ。陛下は、早くもそれをごらんになったらしい。青年たちの中には、明らかに泣いている顔も見える。歯を食いしばっている顔も見える。陪席の高官たちも目をしばたたいている……」


 雨は止むことなく、風をまじえて降りつづいています。その中を潮が寄せてくるように青年たちの堂々の行進が、陛下の前を果てしなくつづくのです。


 その隊伍に厳然たる挙手の答礼をなさる陛下は、直立不動のまま微動だになさらないのです。その塑像のようなお姿のまま一時間が経ち、一時間半に迫ろうとしています。「陛下! 陛下!」そう思わず叫びたい衝動にかられぬ者はいなかったでありましょう。


 こうして午後三時半、ご親閲を終えられた陛下は、嚠喨たる君が代の吹奏の中を還御の途につかれました。しかし、陛下の立ち去られたあとの王座を拝した時、人びとは神雷に打たれたような思いにはげしく胸を衝かれ、声を呑んだのです。前出の『御親閲を仰ぎて』はこう書き伝えています――。


「寒風吹きすさぶ真唯中に、神々しく立たせ給ひ分列各集団に御答礼を賜はる御つとめの程、畏くも畏く、親閲終って玉座の階段を下りさせ給ふ御足取りの、稀少しく硬直の御様子を拝し唯々恐懼の外なかった。解散後、玉座に敷かれし絨氈の上に、正しく六十度の開きにある唯二つの御足の跡の他には、唯一つの御跡さえも拝せられず、一時間半の長きに亘って御身動きだにあらせられず御親閲あらせられた叡慮の程を拝して、涙を浮かべながら御跡に敬礼する者多かった」と。


 一体、並みの人間に出来ることでしょうか。私も兵隊の端くれとして、多くの検閲・査閲を受けたことがありますが、陛下のように厳然と、慈父のごとく畏兄のごとく思いやりあふれ、まさに身を捨ててという他ない一心同体の実を示してくれた軍人に、出会ったことは終ぞありませんでした。


 陛下はその時、御年二十七歳。二週間前の十二月二日には代々木練兵場で大礼記念観兵式を陸軍将兵に、四日には横浜沖で大礼特別観艦式を海軍将兵にというように、まことにハードなご日程を過ごしておられたのです。その中でのこういう尊い秘話に、私たちは陛下のお心がいつもどこにおありになるのか、あらためて思いを致すのです。