第一次大戦後の「戦争違法化論」 | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
(日本協議会・日本青年協議会の公式見解ではありません。)

 「祖国と青年」4月号は「女性が語る憲法改正」と銘打っていますが、その裏テーマは「憲法9条」です。


 特に長谷川三千子先生の講演録「憲法九条を解剖する」は、憲法九条に関して理論武装したい人には特にオススメです。


 長谷川先生のお話の中で興味深いのが、第一次大戦後にアメリカで起こった戦争違法化の運動の話です。これは一見、「9条の会」の運動と同じように聞こえますが、実はまったく異なるというのです。そして、その「違い」にこそ、「9条の会」の主張のおかしさを裏付けるものなのです。


 以下、「祖国と青年」4月号からの引用です。



 憲法九条は世界に比類のない平和憲法だと言う人は、「世界中でこれしかないということが誇り」と言っていますが、それがいかにおかしいか、というところからお話していきたいと思います。


 先ほど少しお話しましたが、第一次大戦後のアメリカで、戦争はとにかく人と人が殺し合うという大変な犯罪行為なのだから、ありとあらゆる戦争を違法化してしまおう、と主張するレヴィンソンといった人たちが現われ、「戦争違法化」というイデオロギーを打ち立てます。「Outlawry of War」というスローガンを掲げて、一時期アメリカで流行になりました。九条二項の「あらゆる戦力を保持しない」「交戦権を否認する」という考えは、これとよく似ています。


 「交戦権」とは何かと言えば、平時に人が人を殺したら、正当防衛以外は、殺人罪に問われます。ところが、交戦状態においては、人が人を殺しても罪には問われない――これが交戦権の一番大事な条件です。戦争違法化論は、言ってみれば、こういう交戦権はおかしいではないか、人が人を殺したらやはり犯罪だろうという考えから生まれており、主にキリスト教の新教(プロテスタント)、クウェーカーが中心になって主張していました。


 ただ、重要なことは、このアメリカの戦争違法化論は、世界のシステム全体を変えてしまおう、という考えなのです。つまり、アメリカ一国が戦争放棄の憲法を持ちましょう、という話ではないのです。そんなことは、この戦争違法化論を主張する誰一人として考えなかった。世界が丸ごと、一斉に武力行使をやめる、戦力不保持を実現するのでなければ、この戦力不保持の世界的運動というものはできない、と考えていた。ここが大事なポイントなのです。


 実は、不戦条約をつくる時にも、ケロッグとブリアンの交渉のプロセスの中で、全世界が加入したところで初めて発効するものにしよう、という案も出たのです。ただ、実際問題としては、ではどうやって監視するのか、どうやって一斉に武器を放り出すのか、猫に鈴をつける話のように難しいのです。


 いずれにしても大事なことは、一国だけが武装解除しても、一国だけが交戦権を否認しても、何の平和条項にもならないということです。全世界が戦争の権利を持ち、軍事力を持っているところに、ある地域だけ完全に軍事力ゼロとなったら、一体どういうことが起こるか。これは軍事の専門家でなくても、常識で考えれば分かることで、ありとあらゆる軍事勢力がそこを草刈場にして、それが新たな戦争の出発点になることは、火を見るより明らかです。つまりこの第九条二項を文字通りに日本が守ったら、平和条項ではなく、戦争条項になるのです。


 九条二項が戦争の出発点にならない条件があるとすれば――実はこれをつくったマッカーサー自身、それを考えていたのですが――、アメリカ軍が日本全体を自分の基地にすることです。そうすれば日本は草刈場にならず、九条二項は守られる。


 「世界に冠たる九条」をノーベル平和賞として申請しようとする人に対しては、「あなたは米軍基地に沖縄だけでなく、日本中全部を支配してもらうことをお考えなのですね。そうでなければ、これは平和条項ではなくて、戦争条項になりますよ」と言えばいいのです。日本一国だけが完全に軍事力を持たない、交戦権を否認することが、非常に危険であるということは、常識で考えれば誰でも分かる話だと思います。