三島由紀夫と憲法改正の大義 | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
(日本協議会・日本青年協議会の公式見解ではありません。)

 三島由紀夫・森田必勝両烈士四十四年祭を前に、「祖国と青年」11月号より別府正智さんの巻頭言を紹介します。



■九条は平和の象徴ではなく、偽善の象徴


 「憲法九条をノーベル平和賞に」実行委員会なる団体がノーベル平和賞にノミネートされ、受賞するか否かをマスコミが取り上げ、巷間の注目を浴びた。無論、受賞などしなかったが、彼らの意図は明白である。憲法九条は「平和の象徴」であり、憲法改正は「平和に逆行する危険な行為」である、という構図を国民に印象付けることである。


 この憲法九条の精神を簡単に言えば、「国家間で問題が起こっても話し合いで解決する」という間違った平和主義である。なぜ「間違っている」か。本誌九月号でベトナムのボー・コン・チ常任副書記長が述べているように、現在、中国はベトナムが領有する西沙諸島近海において主権侵害を繰り返している。ベトナムは、国連憲章と国連海洋法条約に基づき、あくまで平和的に、話し合いで解決しようと三十回以上もの外交会談を設けたが、中国は一切の要請を無視した。そればかりか、中国は実力行使に出て、ベトナムは甚大な被害を受け、今なお膠着状態が続いている。


 戦後日本は憲法九条による武力を一切排除した平和外交路線をすすめてきた。それゆえ、諸外国との懸案にはカネによって解決を図る「マネー外交」を展開し、湾岸戦争では国際社会の信頼を失った。更に近隣諸国は、そのカネを目当てとして歴史認識をカードに、日本の謝罪を引き出す方策を取り、我が国は同胞を拉致した北朝鮮や軍拡を続ける中国にカネを出し続ける「謝罪外交」を展開した。そして今や中国、ロシアによる領空領海侵犯が常態化し、米国の軍事力なくしては自国の安全をも保持できない危機に晒されている。我々は改憲にあたり、改めて声を上げなければならない。九条は平和の象徴ではなく、戦後の偽善の象徴である、と。


 ■「生命尊重のヒューマニズム」という偽善


 まもなく三島由紀夫氏が市ヶ谷台にて自決した十一月二十五日を迎える。本会は毎年この日に、三島氏が自らの命を賭して訴えた憲法改正への志を固めるべく、慰霊祭を開催している。


 九条改正とは何か―三島氏はそのことを問い続けて来た。九条を改めて軍隊を持つ。では、その軍隊は何を守るのか。「国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である」と三島氏は檄文に述べている。政治家はよく、国民の生命、財産を守るというが、それは政体を守る警察の役目である。国土を守ると云っても、所詮それは地面としての国土であり、共産政権になっては元も子もない。国民を守るといっても、国体破壊を企む輩を守ることが防衛とは云えず、抽象論に陥る。三島氏は次のように云う。


「われわれは何を守るか、といふことだが、日本は太古以来一民族であり、一文化伝統をもつてきてゐる。従つて、守るべきものは日本といふものの特質で、それを失へば、日本は日本でなくなるといふものを守るといふこと以外にないと思ふ」「天皇は日本の象徴であり、われわれ日本人の歴史、太古から連続してきてゐる文化の象徴である。…日本文化の歴史性、統一性、全体性の象徴であり、体現者であられるのが天皇なのである」(『栄誉の絆でつなげ菊と刀』)


 軍隊が守るべき国体とは、忠誠の対象たる天皇である。かかる建軍の本義が与えられない自衛隊は、警察の物理的に巨大な存在としか認識をされないままとなる。それでは真に国を守る軍隊とは成り得ない。


 三島氏は、戦後、九条によって「新しい国体」が作り出されたと語る。それは「生命尊重のヒューマニズム」である。戦後、国家意志はつねに生命尊重以上の理念を打ち出す事はなかった。結果、我が国は北朝鮮に拉致された同胞の生命さえも守ることは出来ず、国民はそのことを知らずに生きて来た。かかる「偽善」と「隠蔽」を作り上げたのが現憲法である。三島氏は、その憲法に体をぶつけて、現憲法の虚構を明らかにしたのである。


 憲法改正を実現するには、まだまだ内外の壁は高い。したがって、政治的には、幅広い改憲陣営の大同団結が不可欠である。しかし、政府、自民党をはじめとする改憲支持政党は、九条改正の問題から目を背けてはならない。九条を問うことは単に安全保障の問題に留まるものではない。我が国の国体を明らかにするものである。それこそが憲法改正の大義である。


 憲法改正一〇〇〇万人賛同者拡大運動がいよいよスタートしたが、三島由紀夫・森田必勝両烈士四十四年祭を迎えるにあたり、改めて三島氏の義挙の言葉と行動に深く思いを致したい。