憲法9条の問題について、前回は歴史観の問題について書きました。
要するに、護憲派のいわゆる「平和思想」の根底には、「戦前の日本は軍国主義をひた走り、誤った戦争に突入して破滅した」という偏った歴史認識があり、これを何とか打ち破らなければいけない、という話でした。
では、なぜそんな歴史観になるのかとつらつら考えてみると、三島由紀夫さんが指摘された「ヒューマニズム」「生命尊重」の問題に行き着かざるを得ません。
保守の政治家でも、よく「国民の生命、財産を守る」と言いますね。
国防の必要性もそういうところから訴えられます。
もちろん、現憲法もその価値観の上に成り立っています。
では、大東亜戦争について、例えば特攻隊について、生命尊重という価値観だけで理解できるかといえば、これは絶対に理解できません。当然先の護憲派のような見方にならざるを得ません。
もちろん、特攻隊を「家族や大切な人たちを守るため」という枠で語ることは可能ですが、特攻隊はそんなきれいごとでは済まない、ということは護憲派の方が正確に嗅ぎ取っているかもしれません。
三島さんは「生命尊重以上の価値の所在を諸君に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ」と言いました。
生命尊重はもちろん大切なことです。しかし、それよりももっと大事な価値がある。それを戦前の人々は「国体」と言い、三島さんは「歴史と伝統の国、日本」と言いました。そして、実際にそれを守るために多くの人々が命を捧げました。
ヒューマニズムを越える「国体」という価値を認めるのか否か――憲法9条の問題はそのことを鋭く問うているように思えてなりません。そして、その価値を認めるという自覚に立たない限り、真の意味で現憲法を否定し、護憲派の論理を破ることはできないようにも思います。