「国民主権」は憲法三原則の一つであって、人類普遍の原理のように言われていますが、果たしてそうでしょうか。
もちろん「国民に主権はない」ということが言いたいのではありません。「国民主権」と言った時の、その概念に問題があるということです。
それが端的に表れているのが第一条です。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」
「祖国と青年」7月号の江崎道朗氏の論文に詳しいですが、GHQと折衝した日本政府は「主権の存する日本国民の総意に基く」を「日本国民の至高の総意に基づく」と訳しました。結果として、却下されたわけですが。
では、「主権の存する日本国民の総意に基く」と「日本国民の至高の総意に基づく」とでは、どう違うのか。前者は裏を返せば、「国民の意思によって天皇のあり方を決めることができる」、もっと言えば「天皇を退位させることができる」ということで、その「天皇制廃止」こそがGHQに潜り込んだソ連のスパイであり、「国民主権」を主張したビッソンの狙いでした。
江崎氏の論文に引用されているビッソンの言葉を引きましょう。
日本国民が天皇にそむき、天皇を退位させるならば、その行為は賞賛され、支持されなければならない。もしも彼らがそうしないのならば、彼らが必ず黙従すると考えられる根拠があり次第、彼らに代わってただちにその措置をとらなければならない。
そのような方針は連合国がとりうるものではない、なぜならば、それはきわめて微妙な問題であり、天皇崇拝は、日本国民の意識の中にあまりにも深く根をおろしているからだ、という主張もあろう。…深部からの革命による以外には、一夜にして成果をもたらすことはできないであろう。
私たち今生きている国民の表面的な意思よりももっと大事な何ものかがある。それを先達は「至高の総意」と表現したわけですが、そのことの意味を改めて考えるべきだと思います。長い歴史の中で培われた高く尊いものを、自ら引きずりおろし、貶める愚を犯さないためにも――。