陛下、対馬丸に寄せられる御心 | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
(日本協議会・日本青年協議会の公式見解ではありません。)

 今日は沖縄戦終結の日。沖縄で式典が行われている他、東京の靖國神社、沖縄の護国神社で殉国沖縄学徒の顕彰祭が行われています。


 そして、26日、27日には両陛下が沖縄へ行幸啓になり、対馬丸記念館をご視察になります。陛下の対馬丸に寄せられる御心について、「祖国と青年」平成20年12月号の「荒潮のうなばらこえて」からご紹介します。



 陛下が沖縄に関心を持たれるようになったのは、昭和三十八年に第一次沖縄豆記者訪問団とお会いされたのが最初であった。その後、昭和四十三年に鹿児島県の奄美大島をご訪問されたことをきっかけに、沖縄の歴史について宮城栄昌氏、文学について外間守善氏からご進講をお受けになった。


 二人によるご進講が行われたのは昭和四十四年二月十九日。外間氏は、「きわめて専門的な質問を次々に受け、驚いた記憶がある」と後に記しているから、陛下はその頃までには、かなりの勉学を積まれていたものと推察される。ご進講はその後、外間氏一人で言語・文学から沖縄の万葉集にあたる『おもろさうし』へと度重なり、そこには皇后陛下(当時の妃殿下)も同席されるのが常であった。


 外間氏はまた、昭和四十三年に東京日本橋の三越デパートで開催された「これが沖縄だ」展で、両陛下(当時の皇太子同妃両殿下)をご案内申し上げた際の印象的なエピソードを伝えている。外間氏は、沖縄戦の体験者として、沖縄戦のパネルを説明申し上げていたが、両陛下の足が一つのパネルの前でピタッと止まったという。それは、学童疎開船「對馬丸」のパネルであった。


 外間氏も、妹を對馬丸で失くした遺族であった。説明の後その旨を申し上げると、「殿下も立ちつくして動かない。ただごとではない空気があたりをつつんでいた。合図役がいくら手を回しても先に進むことが出来なくなってしまった」という。(以上、『諸君!』七月号・外間氏記事より)


 「對馬丸」は、多くの学童を含む沖縄県民を本土へ疎開させるため、昭和十九年八月に沖縄を出港した貨物船で、鹿児島県の悪石島付近を航行中に米潜水艦の魚雷攻撃を受け、撃沈された。


 この対馬丸の事件は、昭和四十三年の時点においても、沖縄以外では全くと言っていいほど知られていなかった。陛下ご自身、戦争中日光に疎開された経験をお持ちだが、ほぼ同じ年代の子供たちがこのような悲劇に遭っていたことは、とても人ごととはお思いになれなかったに違いない。


 對馬丸はその後、長い間消息が知れなかったが、平成九年十二月十二日、ついに海底に眠る船体が発見された。その報をお聞きになった陛下は、次のようにお詠みになり、ご感想をお述べになった。


 對馬丸見出さる
疎開児の命いだきて沈みたる船深海に見出だされけり


「数日前、戦争中千五百人近くの乗船者を乗せた学童疎開船対馬丸が米国の潜水艦に沈められ、その船体が悪石島の近くの海底で横たわっている姿がテレビの画面に映し出されました。私と同じ年代の多くの人々がその中に含まれており、本当に痛ましいことに感じています」(平成九年、お誕生日お言葉)