シドニー湾、ディエゴスワレス湾攻撃隊を偲ぶ | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
(日本協議会・日本青年協議会の公式見解ではありません。)

 もう5月も終わりですね。


 5月の終わりと言えば――そう、昭和17年の第二次特別攻撃ですね! 5月31日にシドニー湾、ディエゴスワレス湾攻撃が敢行されました。


 何のことかよく分からない人は、今「祖国と青年」に連載中の「国の鎮めとなりて・軍神編」を読み返してみてください。


 「軍神編」の九軍神の話が始まったのが昨年12月号で、これは当然昭和16年12月8日を意識してのことです。その後、シドニー湾・ディエゴスワレス湾の十軍神の話が始まったのが4月号で、5月号、6月号と続いていますが、これも5月31日を意識してのことです。


 命日に亡くなった方を偲ぶように、英霊もその方が戦死された日にお偲びするのが最も心に迫ると思います。


 十軍神の方々は、ちょうどこんな季節に出撃されたのですね。


 以下、「祖国と青年」4月号から引用します。



 真珠湾に続き、特殊潜航艇による第二次特別攻撃が行われたのは昭和十七年五月三十一日。目標はオーストラリアのシドニー湾とマダガスカル島のディエゴ・スワレス湾であった。真珠湾の九軍神に続く「十軍神」である。


 シドニー湾は、松尾敬宇中佐(当時大尉)をはじめとする三隻・六名が攻撃を敢行。碇泊艦コタバルを撃沈した後、全員が壮烈な戦死を遂げた。


     (中略)


 昭和十七年五月三十一日夜――。


 シドニー湾を突如混乱に落とし込んだ三隻の特殊潜航艇による攻撃は、豪海軍を驚愕させるに十分であった。日本軍が、まさかこんな湾内奥深くまで切り込んでくるとは、想像だにしていなかったのだ。その驚愕は、やがてこの困難な作戦を成し遂げた勇士に対する畏敬の念へと変わっていった。


 三隻のうち、湾内に沈んだ二隻は、攻撃終了後ただちに豪海軍によって引き揚げられた。攻撃中に相当小型の潜水艇であることは分かっていたが、引き揚げられた艇を目の当たりにして、そのあまりの頼りなさに豪海軍将兵は改めて驚いた。そして、この小型の潜水艇に乗って袋小路のシドニー湾を襲うことがどういうことを意味するか、即座に理解した。


 豪海軍は六月九日、これら特殊潜航艇の勇士を、海軍葬の礼を以て遇することに決めた。


 当然、この豪海軍の処置に、批判の声があがることになった。被害は軽微にとどめられたとはいえ、撃沈された碇泊艦コタバルから十九名の犠牲者を出している。また、特殊潜航艇を発進させた母艦・イ号潜水艦は、その後、貨物船を襲ったり、浮上して軍事施設に砲撃を加えたりした。市民の平和を脅かす敵国軍人に対して「海軍葬」とは何事か、と。


 しかし、さすがはロイヤル・ネービーの伝統を持つ豪海軍である。シドニー港司令官ムアーヘッド・グルード少将は、全国ラジオ放送を通して次のように呼びかけた。


「余は諸君に問う。かくの如き勇敢なる軍人に対し、名誉的儀礼を与えてはならぬとするのか。勇気は一特定国民の所有物でも伝統でもない。これらの海軍軍人によって示された勇気は、誰によっても認められ、かつ一様に推賞せられるべきものである。これら鉄の柩に入って死地に赴くには、最高度の勇気がいる。これら勇士がおこなった犠牲の一千分の一の犠牲を捧げる準備のある豪州人が幾人いるだろうか」


 特殊潜航艇を「鉄の柩」と呼び、これに乗って死地に赴くには「最高度の勇気がいる」、その「一千分の一の犠牲を捧げる準備のある豪州人が幾人いるだろうか」というのは、同じ海軍軍人ならではの実感であろう。


 特殊潜航艇の勇士が示した犠牲精神を「武士道」とするなら、その真意を理解し、礼を以て答えた豪海軍の精神は、「騎士道」として称讃されるべきである。


 シドニー湾攻撃は、真珠湾攻撃と同様、軍事作戦面においては、必ずしも「戦果をあげた」とは言い難い。しかし、このときに遺憾なく発揮された「武士道」と「騎士道」の高貴なる精神の相互交流によって、その後今日まで続く日豪友好親善の基礎が作られたのである。


 なお、シドニー湾攻撃と時を同じくして敢行されたマダガスカル島のディエゴ・スワレス湾攻撃には、秋枝三郎大尉・竹本正巳一曹が搭乗する「秋枝艇」、岩瀬勝輔少尉・高田高三二曹が搭乗する「岩瀬艇」が参加。全員が壮烈な戦死を遂げた。


 特に秋枝艇は、戦艦ラミリーズ大破、英商船ブリティッシュ・ロイヤル撃沈という目ざましい戦果を上げたが、その後、艇が座礁。秋枝大尉と竹本一曹は艇を捨てて上陸し、歩いて母艦との会合海域に向かった。島北部を横断し、目的の海域を望む丘にようやく辿り着いたその時、英軍捜索隊に発見されてしまった。二人はもはやこれまでと思い定め、英軍の降服勧告を拒否し、壮烈な斬り死を遂げたのである。
  
          ○


 昭和十七年五月三十一日、シドニー湾口東五マイルの地点に待機する三隻のイ号潜水艦は、午後五時半の日没と同時にそれぞれが搭載する特殊潜航艇を発進させた。松尾敬宇大尉・都竹正雄二曹が搭乗する「松尾艇」、中馬兼四大尉・大森猛一曹が搭乗する「中馬艇」、判勝久中尉・芦辺守一曹が搭乗する「伴艇」である。


 前日の三十日は満月であった。今夜も煌々たる月の光が、複雑に入り組んだリアス式海岸で知られる夜のシドニー湾を照らし出してくれるだろう。


 午後八時過ぎ、最初に湾口に辿り着いたのは中馬艇であった。しかし、湾口には潜水艦の侵入を防ぐための防潜網が張ってある。その防潜網のワイヤーロープに、中馬艇はスクリューを巻きつけてしまった。幾度も脱出を試みるもその甲斐空しく、午後十時半ついに自爆した。


 次の伴艇が到着したのは午後十時前。湾口奥深くに侵入し、一番の大物・巡洋艦シカゴを狙う。正午〇時頃、敵が必死に砲弾を浴びせかける中、伴艇はシカゴを目がけて二本の魚雷を発射。魚雷は水深が深すぎてシカゴを外したが、そのうち一本は奥にいた碇泊艦コタバルに命中、撃沈した。その後、伴艇は敵の猛攻撃をかいくぐって湾口を脱出したが、そこで力尽きた。


 午後十一時前に松尾艇が到着した頃には、湾内は既に修羅場の様相を呈していた。中馬艇は自爆し、伴艇は湾口深くに切り込んでいる。敵もようやく事態を把握し、警戒、砲撃を本格化させていた。松尾艇は海底深くに潜み、時が来るのをひたすら待った。


 そして午前三時前、絶好の機会が到来した。伴艇が逃したシカゴが、湾外に退去すべく向こうから近づいてきたのだ。シカゴも松尾艇に気づき、猛攻撃を始めたが、時既に遅し。松尾艇は必中の体勢に入っていた。


「発射用意よしっ!」


 都竹二曹の報告を受け、松尾大尉は発射レバーを握る手に渾身の力を込める。


「発射!」


「――っ!?」


 何ということか。魚雷が発射しない。航行中、艇首をぶつけたときに、発射管の蓋が開かなくなってしまったらしい。


 松尾大尉は悔しさに顔を歪めながら、シカゴが退去していくのを見送った。魚雷が発射できないのなら、魚雷もろとも体当たりするしかない。既に総艦船退去が始まっている。残された時間は少ない。


 そのときである。豪海軍将兵が松尾大尉の豪胆極まる姿を目撃することになったのは。


 探照燈の光と、砲弾による水飛沫が交錯する漆黒の海面が突如として盛り上がり、小型潜水艇が堂々とその姿を現したのである。司令塔のハッチが開く。中から将校が現れ、半身を乗り出して悠々と攻撃目標を物色している――。


 度肝を抜かれた豪海軍は、しばし攻撃の手が止まった。茫然と成り行きを見つめる中、潜水艇が再び潜航を開始するに至ってはじめて我に帰り、再び攻撃を開始した。


 この場面について、当時の河相達夫公使は、現地のある雑誌に載せられていた次のような目撃談を伝えている。


「海軍当局が日本潜水艇の攻撃による被害を過少に発表して、我々国民を欺瞞しようとしてゐることは甚だけしからぬ。……その時、軍艦一隻を撃沈された我が海軍は、慌てて、あらゆる砲台と、碇泊中の総ての軍艦とから、探照燈の一斉照射を行った。そして砲台からは、夥しい砲弾が海中に射ち込まれ、軍艦は又無数の爆雷を投下した。しかるに其の時、敵の特殊潜航艇が、突如この凄愴を極めた海面に浮び上がった。煌々たる探照燈下にくっきりと照らし出されたのである。その艇には、司令塔を開けて半身を乗りだした悠々たる姿が、あざやかに見取られた。我が方は、その無謀にも等しい豪胆極まる態度に、しばし手のほどこす術も無く見守ってゐたが、やがて戦艦目がけて猛然と突進して来るのを見て、はじめてこれに集中砲火を浴びせ、やうやくにして撃沈したのであった」


 これは特殊潜航艇勇士の物語の中でも、最も強烈に印象付けられるエピソードの一つであるが、そのことについて、作家・三島由紀夫は『行動学入門』で次のように記している。


「オーストラリアで特殊潜航艇が敵艦に衝突寸前に浮上し、敵の一斉射撃を浴びようとしたときに、月の明るい夜のことであったが、ハッチの扉をあけて日本刀を持った将校がそこからあらわれ、日本刀を振りかざしたまま身に数弾を浴びて戦死したという話が語り伝えられているが、このような場合にその行動の形の美しさ、月の光、ロマンティックな情景、悲壮感、それと行動様式自体の内面的な美しさとが完全に一致する。しかしこのような一致した美は人の一生に一度であることはおろか、歴史の上にもそう何度となくあらわれるものではない」


 もともと伝えられた話とはずいぶん異なっているが、それでも、三島がこの松尾中佐のエピソードに「人ならぬ何ものか」を感じ、ある種の羨望すら抱いていることははっきりと知れる。人間であること、その極みにおいて神が現れるという日本古来の信仰に基づくなら、三島はここにまさしく「軍神」を見ていたことになるだろう。