真珠湾攻撃と九軍神 | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
(日本協議会・日本青年協議会の公式見解ではありません。)

 明日12月8日は、大東亜戦争開戦の日です。


 「祖国と青年」12月号で、鈴木編集長の連載「国の鎮めとなりて」の「軍神編」が始まりましたが、そこでハワイ真珠湾攻撃と九軍神について書かれています。


 真珠湾攻撃といえば航空隊による大戦果が有名ですが、時を同じくして五隻の特殊潜航艇に乗り込んだ十名の若者たちが同じく真珠湾を襲い、捕虜となった酒巻少尉を除き、九名が壮烈な戦死を遂げました。


 十名の氏名は次の通りです。

  岩佐直治大尉、佐々木直吉一曹
  横山正治中尉、上田 定二曹
  古野繁美中尉、横山薫範一曹
  広尾 彰少尉、片山義雄二曹
  酒巻和男少尉、稲垣 清二曹


 海軍当局は、戦死した九名を「九軍神」として発表しました。


 鈴木編集長の連載記事に、当時の国民が九軍神をどのように受け止めたのかが紹介されていますので、以下に掲げます。


 作家・獅子文六は、昭和十七年七月から十二月にかけて、本名・岩田豊雄の名で朝日新聞に「海軍」と題する小説を連載したが、その主人公・谷真人は九軍神の一人、横山正治少佐をモデルにしている。


 いつもニコニコして温和しいが、ここぞというときに負けず嫌いの頑張りを発揮する主人公が、郷里・鹿児島の気風に育まれ、光輝ある海軍兵学校の伝統の中で鍛えられ、次第に洗練された海軍士官へと成長していく――。獅子は、風雲急を告げる当時の情勢にあって、若者たちが如何に明るく、力強く自らの運命を切り開いていったかを、溌溂とした筆致で描いたが、その執筆の動機について、次のように記している。


「大東亜戦争といふものがなかつたら、僕は恐らく『海軍』といふ小説を書くこともなかつたらうと思ふ。ハワイとマレーの戦ひは、故国空前の大戦到るといふ意識と共に僕の胸に劇薬で灼いたやうに、灼きついてしまつた。僕は海軍に何のゆかりもない素人で、戦争のことは書けないにしても、自分の感激をそのままに放置し難かった。僕は『海軍』について、何かの小説を書こうと決心した。


 そのうちに、特別攻撃隊の軍神の事蹟が発表になつた。九柱の軍神を、全部書いてみたいほどの感激を受けた。しかし、一巻の小説として、それは無理だつた。僕はやはり一人の軍神の人となりを、深く掘る方がいいと思つた」


 この獅子の感激は、獅子一人のものではなかった。例えば、同じく作家の吉川英治は次のように記している。


「岩佐直治中佐の未だ二十七歳といひ、広尾彰大尉の二十一といふ若さといひ一魂九軍神のすべてが二十歳から三十歳までの年齢だつたにも何かしら、果して! といふ感銘を受けた。……この青年一群を出した大東亜戦争下の昭和青年は、わけてもこの九軍神に対して、その生命の発揚、その職域の姿、その生活のかたちこそちがつても、それに恥ぢなきだけの心ばへは互に相誓はねばなるまいと思ふ。ただただ愕かされたのはあの大事業の準備が、密かに誓はれた人々の紙上計画からはじまり、その建造、その練習が黙々他の同僚にすら無言で行はれてゐたといふ事前の心境である。自分の命を捨てに自分の柩を自分で設計してゐたといふ科学精神と純忠の濁りなさに至つては、その清さ、気高さ、麗しさ、勇ましさ、床しさ、言語に絶する。人にして神、神にして人」


 さらに、作家・菊池寛は、「この壮烈さに匹敵する勇士を過去に求めることは困難だ」として、次のように言う。


「旅順閉塞隊の場合でもある程度の帰還が予想できたらう。今度の場合になると万死に一生なしである。それを敢然とやり遂げたのだ。しかも死に直面した瞬間死を覚悟したのではない。長時間に亘つて死を覚悟し、然もそれを最期まで持ち続けてゐたこと。これはちよつと真似のできない本当に尊い気持であると思ふ。その上にその戦死が君国を磐石の安きに置く大戦果と結びついてゐることが僕をして『古今に比なし』と言はせる所以である」