長崎と小倉 | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
(日本協議会・日本青年協議会の公式見解ではありません。)

 今日は長崎の原爆忌です。


 「原爆の日」というと左翼の反戦平和のイメージが強く、保守派はどうしても忌避しがちなのですが、陛下がおっしゃられた「日本人が忘れてはならない4つの日」のひとつということを胸に、心静かに追悼の祈りを捧げたいと思います。


 それでちょっと調べていたら、北九州の小倉でも原爆犠牲者慰霊の祈念式典が行われているんですね。なぜかというと、長崎に投下される原爆は本当は小倉に落とされるはずだったからです。第一目標は小倉だったのが、天候が悪くて第二目標の長崎に落とされたのです。


 この事実にはちょっとショックを受けました。そして、少し考え込んでしまいました。


 この「小倉か長崎か」という可能性の問題と、長崎に投下されたという冷徹な事実は、戦争というもの、いや人間の存在というものに対する根源的な問いを投げかけているように感じました。


 小倉の人が長崎の人より行ないが良かったとか悪かったとか、長崎の人が小倉の人の身代りになったとかそうでなかったとか――このあまりにも大きな犠牲、あまりにも重い歴史的事実の前では、あらゆる人間の意味付けは虚しく響くだけです。


 あるのは「小倉が助かって、長崎が犠牲になった」、ただそれだけです。その事実を、失われた命の重さを、悲しみを、真摯に受け止めること以外に、私たち卑小なる人間にできることがあるのでしょうか――そんな厳粛な思いに駆られました。


 私は、平和祈念式典で得意気に「脱原発」とか「福島に寄り添う」などと言っている人たちには、こうした人間としての謙虚さが欠けているようで嫌なのです。


(別に「脱原発」とか「福島に寄り添う」こと自体がおかしいと言っているわけではありません。平和祈念式典でそういうことを言う神経が嫌だ、という意味です。まあ、「脱原発」については、それ自体もおかしいとは思いますが…)