明治天皇100年祭に向けて② | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
(日本協議会・日本青年協議会の公式見解ではありません。)

 今日は、「祖国と青年」7月号から、南雅也氏の靖國神社に関するご文章をご紹介します。


 南氏は故人で、かつて「言論春秋」に「靖國の神々」という連載を書いていらっしゃったのですが、その昭和六十二年十月二十六日号に掲載されたものより一部転載したものです。



 明治天皇が大統を継がれ、即位されたのは慶応三年一月、御齢まだ十五歳の時であった。しかも世は幕府の失政を重ねた末期であり、国事は内外にわたって多事多端を極めた時代で、皇政を復古して維新の大業を成就されるまでには、招魂社創建の布告にも御沙汰されているとおり幾多忠烈の士が戦死、自刃あるいは非業の刑死と、勤皇のため殉じ斃れていった。


 そのただならぬ様を、蛤御門の変など至近の兵馬倥偬の間に、陛下ご自身が身近にされてきただけに、烈士の忠魂に対してはたえず一入のご感懐をもって御心を傾けられていたであろうと拝される。


 であればこそ、ただ一柱の忠霊合祀についても臨時祭の執行を仰出され(第五・第六合祀祭)、ねんごろな祭儀をお命じになったし、両陛下の行幸啓も十一回にわたらせられている。


 さらに、靖國の英霊に注がれる御心は数多くの御製にも仰ぎ見ることができる。


 明治三十八年五月三日、第三十一回の臨時大祭では日露戦争の戦歿者三万八千八十三柱が合祀されたが、その前夜、斎庭において厳粛な招魂の儀が行われ、御羽車によって英霊は正殿に遷し祀られた。その夜、明治天皇は宮城にあって深更に及んでも御寝に就かれず、忠霊奉遷の時刻を待たれた。その時の御製に――、


 国の為いのちをすてしものゝふの魂や鏡にいまうつるらむ


 これよりさかのぼる明治十年十一月のことだった。東京招魂社に行幸された明治天皇は、御幣物として御神前に大鏡を奉安されたが、以来、忠烈勇武のやまと魂が結晶した光を留める神鏡として、みやしろ奥深く奉安されてきた。


 この御製は、その神鏡にその夜その時刻、奉遷されるもののふたちの魂が「いまうつるらむ」と御心を寄せられた御詠であろう。そしてその時、同じく詠まれた御製に――、


 むかしよりためしまれなる戦におほくの人をうしなひしかな


 なんという深いお悲しみの御詠であろうか。将兵を股肱の臣、赤子といつくしまれる陛下の御心。その前年には、「田家翁」と御題されて、


 こらは皆軍のにはにいではてゝ翁やひとり山田もるらむ


 と、銃後の民草の身の上にも、深いご軫念を注がれた。


 翌三十九年五月二日の夜、さらにつづけて日露戦争の戦歿者二万九千九百六十柱の招魂式が執行された。明治天皇は翌三日の臨時大祭に行幸、親拝されたのだが、その合祀の時が日一日と近づくのをたえず御心にかけられて、次の御製を詠まれている。


 国の為いのちをすてしますらをのたま祭るべき時ちかづきぬ


 こうして戦い一年八カ月。わが国運を賭し、国力の限りを尽くした日露戦争は、終結の時を迎えた。すでにぎりぎりの戦力を残すのみにして平和がようやく回復した時、どれほど明治天皇は御心を安んじられたことだろう。


 外国にかばねさらしゝますらをの魂も都にけふかへるらむ


 凱旋の日、戦いに斃れた幾多将兵の忠霊が、軍隊とともにきっと「声なき凱旋」をしているであろうと、天皇は英魂に深き思いを寄せられ、雄々しき歩武堂々の凱旋軍の隊列の中に、陣歿勇士たちの英姿をきっとみそなわされたに違いない。


 その日露戦争勝利の凱旋式は、まず凱旋大観艦式明治三十八年十月二十三日、艦艇百六十一隻並ぶ横浜港外で、凱旋大観兵式は翌三十九年四月三十日、百個連隊の軍旗ひるがえる青山練兵場でそれぞれくりひろげられた。


 いさましくかちどきあげて沖つ浪かへりし船を見るぞうれしき
 戦にかちてかへりしつはものゝ勇ましくこそたちならびけれ


 この二首の御製は、その二度の輝く凱旋式に親しく臨御された明治天皇が、お詠みになったものである。


 肉弾死闘の大会戦を大陸の曠野に数次重ね、乾坤一擲の大海戦に全艦隊あげて挑み、遂に列強随一の強敵を撃滅した日露戦争。その戦いに散華したあまた将兵に、常に大御心を注がれていた明治天皇。


 のち大正の御代に入って元年十二月三日、明治大帝にとってこの思い出深きこの両凱旋日が、靖國神社の春秋例大祭の日と改定されたのであった。