皇位継承の危機を先人たちはどのように乗り越えたのか――というのは、「祖国と青年」2月号の椛島会長の政策提起においても重要なテーマの一つとなっています。
間もなく2月11日「建国記念の日」を迎えますので、このブログでも、皇位継承の危機を乗り越えた過去の実例を学んでみたいと思います。
一回目の今日は、第25代武烈天皇から第26代継体天皇への継承についてです。
ちょっと見にくいかもしれませんが、略系図を掲げます。
略系図の右下に武烈天皇のお名前がありますが、武烈天皇が崩御された時、天皇には皇子もご兄弟もおられませんでした。
しかし、手白香皇女という妹さまがいらっしゃいました。
今の感覚だと、「致し方ありませんから、手白香皇女さまに天皇になっていただきましょう」ということになると思います。
ところが、大伴金村は神武天皇に繋がる方を探し求めて、福井から十親等260年離れた継体天皇をお連れするのです。
古代といえども、これは簡単なことではありませんでした。
大和の平群氏のように、継体天皇が皇位を継がれることに抵抗を示す勢力は当然ありました(「日本書紀」)。そのため、継体天皇は即位されてから大和に入られるまで20年もかけられたほどです。
古代の人々は、なぜ武烈天皇に最も近い手白香皇女さまを天皇に立てるということをあえてせずに、継体天皇即位という苦難の道を選んだのでしょうか。
歴史学者の坂本太郎先生は次のように述べています。
「皇統が以上のように微弱になったとき、これにとって代わる豪族がおこらなかったのはなぜであろう。苦心して皇胤を探し、五世、六世の末であっても、なお皇室の系譜につらなる人を立てる必要はどこにあったのであろうか。皇位の世襲がすこぶる古くより行われたので、それを不動の鉄則とする観念が自然に人々の間に生じていたこと、それは、皇位をつつむ司祭者的な性格のために、権力とか知恵とかをこえた宗教的なおきてとして、強い拘束力をもっていたことなどが、まず考えられるであろう」(『日本全史』)