藤原氏の怨霊 | 不思議なことはあったほうがいい
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 1025年(万寿二年)七月。

 小一条院・敦明親王に嫁した藤原道長の三女・寛子は、かねてより病がちであった。「いと苦しげにせさせたまひつつ、月日にそへて影のやうにのみならせたまへば」というほどのやつれようで、病気平癒の修法むなしく、ついに危篤状態となった。枕辺に駆けつける父・道長……以下『栄華物語・みねの月の巻』


 殿、「さていかが思さるる」と申させたまへば、「何事をかともかくも思ひはべらん。ただつらしと思ひきこえさすることは、この院の御ことを、”かからではべらばや”と思ひはべりしことをせさせたまいて、身のいたづらになりはべりぬることなんある」とのたまわせて、泣かせたまへるさまなれど、涙も出でさせたまはず。殿泣く泣く、「さやは思ひはべりし。今は限りにこそおはしますめれ」とて、御髪おろして尼になしたてまつらせたまふ。…………御物の怪どもいみじう、「し得たり、し得たり」と、堀河の大臣・女御、諸声に「今ぞ胸あく」と叫びののしりたまふ。


 その深夜、寛子は死んだ。享年27。

 状況を少し整理しておくと……

 先々代(66代)故・一条天皇の中宮だったのは紫式部が仕えたことで有名な、道長の長女・彰子

 先代・三条天皇(一条の従弟)の皇后だったのは道長の次女・妍子

 現天皇・後一条の皇后は道長の四女・威子

 そして、皇太子・敦良親王(今上の弟=後の後朱雀)には末娘(六女)の嬉子、現在、妊娠中。

 すなわち、道長が有名な「望月の歌」を歌って約10年後、藤原北家一族がその絶頂・栄華を極めていた最中の悲劇であった。

 彰子・妍子・威子・嬉子はみな、道長と正妻・倫子(源雅信の娘)との間の子であるが、この寛子は、側室・明子(源高明の娘)との子である。(ちなみに明子との間にはもう一人、五女・尊子があり、彼女は源師房(村上源氏の祖)と結婚した)。


 さて、道長に恨み言を述べたのは寛子の本心ではなく、彼女にとり憑いた、怨霊=もののけのなせるわざである。「シテヤッタシテヤッタ」「スッキリシタ」と直接語っているのは脇にひかえた依代を通じて語られたのである。怨霊の正体は道長との政争に敗れた、藤原顕光・延子父娘であるとされた。

 顕光は、道長には従弟にあたる。家柄ゆえに左大臣にまでなるが、道長は、そのひととなりを「至愚之又至愚」と評していた。あるとき、儀式の責任者を強引にかってでた顕光であったが、先に判子を押しておいてから文書を書かせたり・逆にサインしないで文書を回したりと手順はバラバラ、式典での言葉づかいもメタメタ、あるときなどは皇后と皇太后を間違えるなどの失態に、道長もたまらず罵倒したともいう。

 そんなダメ貴族でも夢はある。

 娘を天皇に嫁がせて国母とし、自らは外祖父となって位人臣を極めることだ。顕光は娘・延子を三条天皇の皇子・敦明親王のもとへ嫁がせた。子供もできた。あとは親王に帝になっていただくだけだった。ところが、敦明親王は突然・皇太子の地位を自ら降るという前代未聞の挙に出た。そして、かわって皇太子となったのは道長の娘・彰子が産んで・嬉子が入って懐妊中の敦良親王(後の後朱雀)。敦明は引き換えに、天皇に即位していないにもかかわらず「小一条院」として院号を手にいれた、つまり政治権力とひきかえに経済的保障を手にした。そして、その保険に、道長の娘・寛子を娶った。やがて愛情もそちらへ移った。顕光・延子からすれば敦明の裏切り・道長の謀略!

 以来、希望を失った延子は「雲居まで立ち昇るべきけぶりかと、見えし思ひのほかにもあるかな」と歌った。そして……

 「明け暮れ涙に沈みておはせばにや、御心地も浮き、熱うも思されて、例ならぬさまにてあり過ぐりさせたふほどに、いと悩ましう思されければ、御風にやとて、茹でさせたまひて上らせたまふに、御口鼻より血あえて、やがて消え入りたまひぬ」というすざまじい最期……ときに1019年(寛仁三年)4月のことである。

 父・顕光は悲しみのあまり娘の屍を抱いて泣き叫び、「出家する!」などと当時の感覚では軽率なことをいうので、「非常識だ」と、また、笑いものになったという。

 二年後、悲嘆と怨嗟のうちに父・顕光も死去。享年78。

 以来、病がちの寛子の様子を見ていた、小一条院は「いとおどろおどろしき御けはい有様にてののしりたまへば、いとほしうかたはらいとうのみ思しめ」していたというから、怨霊の正体はだいぶ前からわかっていたのだろう。顕光・延子父娘の呪いが寛子の命を奪った……だが、それで話は終わらなかった。

 

 この年、都では疱瘡 と並び恐れられた「赤斑瘡(あかもがさ)」とよばれる奇病が流行していた。これは流行性のハシカであったと考えられる。かつて、995年(長徳元年)に大流行したときは、公卿の半数が死亡するという非常事態となったが、生き残った道長には、逆にタナボタ・チャンスとなり、権力へのステップアップとなった。だが、今回は逆に道長がこの病の流行に悩まされる。寛子の死から一ヵ月後、臨月の嬉子が赤斑瘡にかかったのだ! 

 つづいて、天皇が、皇太子が、皇后・威子があいついで、赤斑瘡となった。小一条院は戦慄する。寛子闘病中、もののけ=顕光・延子はこう言い残していたから。

 「督の殿の御産屋にかならず参りて見たてまつらん!」。

 予告どおり、督の殿=嬉子の産屋にもののけはやってきた。

 「堀河の大臣・女御、さしつづきてののしりたまふさま、いとうたて恐ろしあやにくなり」。小一条院は思った。「このわたりにはさやうにおはしまさん、ことわりなり」。

 やがて、赤斑瘡は弱まり、帝・東宮らも大事にはいたらなかった。そして、嬉子は無事、男御子・親仁親王(後の後冷泉)を出産したのであるが……もののけは容赦しない。「ゆゆしきことども言いつづけののしりたまふ」。名僧たちの読経むなしく、八月五日酉の刻、嬉子永眠。19歳。

……悲しみにくれるまもなく、続いて道長次女・妍子が体調を崩し、二年後の1027年九月、ついに衰弱死。道長は悲しみのあまり「御ともにゐておはしませ」と泣いたという。そして、道長じしんも弱まり、もはや彼女の葬儀に列する力もなく、同年12月に後を追うように死を迎える……。嬉子の残した後冷泉天皇には子供もできず、道長一門の斜陽となる。欠けることのないはずの望月は欠けた。これらすべてに、顕光・延子の怨霊の噂がつきまとった。


 有名な「怨霊」といえば・菅原道真 平将門(将門つながり→「瀧夜叉姫」 崇徳上皇 。それにつづくは井上内親王崇道天皇=早良親王新田義興……。政争・戦争の違いあれど、いずれも権力闘争のはてに敗れ去ったものたちである。   

  藤原顕光・延子も道長一家を恐怖させたという点では、その資格充分なはずなのだが、イマイチ有名ではない。二人の怨霊は疫病流行とかさなったこともあって、ちょうどいい宗教的コジツケだったのかもしれない。もっと強力な怨霊を忘れるための。


 『栄華物語』をみていると、顕光・延子父娘の怨霊の存在を最初に察知し、一番心を乱しているのは小一条院のようにみえる。

 『大鏡』では小一条院が自ら東宮廃位を申し出たことについて、大宅世継は「多くは元方の民部卿の霊の仕う奉るなり」と評している。

 敦明を乱心せしめた怨霊、元方民部卿=藤原元方という人は藤原南家の系統、平安前期(950年ごろ)、村上天皇に娘・祐姫を送り込み、いち早く、広平親王を産ませた。ライバルは北家の藤原師輔(道長の祖父)で、彼も娘・安子を後宮へ送り込んでいた。ある日のスゴロクで、師輔が、「男御子が生まれるなら重六」と唱えてサイコロをふったらそのとおりに目が出て、それを目撃した元方は顔面蒼白になったという。結局その通り憲平新王が生まれ、師輔の政治力によって、兄・広平をさしおいて、生後3ケ月で東宮となった。

 元方は恨みをのんで死んだ。その怨霊は、憲平(冷泉天皇)の狂気としてまず、現れた。負傷した足で一日中マリを蹴っていた、皇室の宝である笛を小刀で削ってダメにした云々。人々は天皇がいつヘンなことをするかとヒヤヒヤしていたという。そして、師輔・安子・村上天皇が短期間であいついで死亡(960、964、967年)。これすべて元方の怨霊と噂された。

 その後も、冷泉系には「悲劇」が続き、それら事件には、みな元方の名がささやかれた。

 冷泉の子である、花山天皇は、師輔の子・兼家とその子たち(すなわち道隆・兼道・道長)との謀略で無理矢理、退位・出家させられた(986年)。もう一人の子・三条天皇は、権力を握った道長に対抗し、なにかにつけて対立したが、眼病を煩い泣く泣く退位(1015~1016年)。そして、前代未聞の東宮自己廃位・小一条院敦明はその三条の息子なのだった。冷泉系皇位継承の道はこれで断たれたのであった。

 ところで、顕光だって、元方に恨まれた・師輔の孫であるから、元方からすればカタキで、顕光のドジぶり=狂気やその後のガッカリなども元方の呪いだった、と言えなくもない。だが、そうすると元方の怨霊は輪をかけて『大怨霊』に成長してしまう。冷泉系へのたたりが終わった今、人々はここで1回怨霊をリセットしたかったのかもしれない……。

 

 こうしてみると、誰かの恨みは誰かを落しいれ、その落とされたもののなかから、また誰かが恨みをもって誰かを恨み……という怨恨の輪廻転生がくりかえされているのであった。自分もいつ怨霊になるかわからない、その気がなくとも生霊ということもある。その源はすべて現世・俗世での栄誉を得たいという欲望にある。そして、その欲を消すことが容易くないゆえに、ウラミ・ツラミ・ソネミ・ネタミもつきない。

 怪談話は、そうした日常を反省するため役にたつと思うのだが、いまもって怪談話が隆盛しているのをみれば、まだまだ反省は足りないということなのである。これを人のサガという。


(ところで、今わの際の寛子の恨み言は、延子の恨みではなく、妾腹であるゆえに、他の姉妹と違って、まったくの政略の道具としてしか使われなかったことへの寛子自身の父への恨み言とも解釈できる。しかし、本当のところはやはりわからない)