『ワークショップ「マトリックス・アクティベーション」講義録』をお送りします。
ライトボディ活性化のバージョン5「守屋のエネルギー」についてです。
長くなりそうなんで2回に分けて、書きます。
諏訪地方の南に守屋山という山があります。
守屋山には、峰が二つあります。
西の峰と東の峰です。
どちらも眺望の大変良い頂で、登るのもそれほど難しくなく、休日ともなれば、多くの登山客で賑わう場所となっています。
東の峰からちょっと下がったところに、祠があります。
そこが守屋神社の奧宮です。
縄文の時代、守屋山は、縄文人が崇める山とされてきました。
諏訪大社もかつては守屋山を御神体としてきた時期がありました。
諏訪大社には、4つの社があります。
諏訪湖の南側に位置し、上社と呼ばれる前宮と本宮、北側に位置する春宮と秋宮です。
諏訪大社の歴史を簡単に記すとこんな具合です。
遠い昔の神話の時代。
大国主神の子供、建御名方神 ( たてみなかたのかみ)は、国譲りに反対し、建御雷神 ( たけみかづちのかみ) と争い、負けてしまいます。
建御名方神は、出雲から諏訪まで逃げました。
諏訪には、洩矢という名の土着の神さまがいました。
建御名方神と洩矢神は、諏訪の天竜川を挟んで、戦いました。
洩矢神が、負けて、建御名方神が諏訪を支配することになります。
建御名方神は、洩矢神を殺さず、神長官という地位を与えます。
神長官は、5人の神官の長です。そして建御名方神は、神さまとして祀られることになります。
やがて建御名方神は、八坂刀売神を妃に迎え、二人の神が、主祭神となり、諏訪大社が、誕生しました。
諏訪大社の4社ある社のうち、一番最初に建てられたのは、上社の前宮です。ここは、建御名方神と八坂刀売神の住居があった場所とされています。かつては神社の裏に二人の墓があり、そこに近づくと、祟りがある、と言われていました。今ではその痕跡はありません。
洩矢神は、ミシャグジと呼ばれる精霊と繋がって祭礼を行ってきました。おそらくそれは縄文の時代に始まったのでしょう。
神長官が、誕生してから、洩矢という名は、守矢と変わります。
以後、守矢家は、一子相伝で神長官を継ぐ家系となります。
親から一人の子供に、神降ろし、神上げなどの神事、秘薬の製造法など、すべての秘儀が、口伝で伝えられました。
守屋山は、諏訪大社の前宮と本宮の裏にある山です。
山の中腹あたりに守屋神社の本殿があります。
守屋神社の左側の山道をまっすぐ登ると、守屋神社の奥宮に至ります。
神長官を代々司った守矢と守屋。音が一緒です。でも字が違いますね。
守屋とは物部守屋からきています。飛鳥時代、蘇我氏との宗教戦争に敗れた物部守屋氏の子供が、諏訪に逃れ、守矢氏の養子となり、守屋氏は神長官を務めることになります。
その伝統は、江戸時代の終わりまで続きます。
ところが明治に入ってすぐ、突然、神長官の地位が、廃止されます。
一子相伝で伝えられてきた、秘儀もすべて、その時点で失われてしまいます。
明治政府は、他の神社の神官や宮司に対しても同様のことを行いました。
さらに明治政府は、神社合祀、そして廃仏毀釈を徹底して行いました。
その結果、多くの寺院は破壊され、当時20万あった神社も多くが廃止され、12万ほどになってしまいました。
一番ひどかったのが三重県で、約80パーセントの神社が取り壊されました。
一番残ったのが京都。80パーセントの神社が残りました。
同時に民間に浸透していたまじないや祈祷、口寄せなども禁止します。
明治5年、突如として修験道の禁止令が発令されます。
当時、日本には修験道者が18万人もいました。成人男子の200人に1人は修験道者だったのです。
彼らは厳しい霊的な修行をおさめ、将来は密教の僧となったり、神官となる人たちもいたのです。
伝統的に行われてきたあらゆる霊的な行為が、短期間のうちに、禁止されてしまいました。
しかし、それは何のためだったのでしょう?
諏訪大社、前宮で行われていた祭礼で、最も重要なものが、御頭祭と呼ばれるものです。
神長官が、廃止される江戸時代まで、続いた祭祀で、毎年2月の酉の日に行われました。
諏訪大社、前宮の入り口に十間廊と呼ばれる建物があります。御頭祭は、ここで行われていました。
この祭礼に欠かせないものが、鹿のささげものでした。この祭礼のために鹿75頭の頭が十間廊に並べられたのです。
奇妙なことに、それらの鹿の中に必ず一頭だけ耳が避けた鹿が混じっていたそうです。この鹿は、耳裂け鹿と呼ばれました。
創世記に、エルサレムの近くにあるモレヤの丘という場所が出てきます。
イスラエルの民の祖であるアブラハムは、100歳になって初めて、男の子、イサクを授かり
ます。
ある時、神は、アブラハムの忠誠心を試すために、イサクをモレヤの丘に連れて行き、生贄として捧げろ、と命じます。
アブラハムは、その指示に従い、モレヤの丘で、イサクを縛り付け、殺そうとした刹那、神に、お前の忠誠心はわかった、殺さなくとも良い、と言われます。
その時、ちょうど藪に引っかかり、耳が裂けた山羊が目の前に現れ、その山羊を屠り、生贄として捧げたのです。
この話は、「イサクの燔祭」として、知られています。
これが諏訪大社の前宮の祭祀、御頭祭の由来でしょう。諏訪大社の御神体である守屋山の名前も、モレヤの丘から付けられた、と考えられます。
多くのユダヤ人が、古代から日本に来ていた、あるいは日本人の祖はユダヤにあるとされる説は、数多く存在します。
紀元前722年、北イスラエルのイスラエル10支族がアッシリアに滅ぼされてしまいます。
さらに紀元前586年、南ユダ王国も、バビロニアに滅ぼされてしまいます。
ユダヤ人の預言者イザヤは、ユダヤ民族の滅亡を予言した預言者です。
彼はイスラエルの滅亡を予言し、「東で神をあがめ、海の島々でイスラエルの神、主の名をあがめよ。」とイスラエルの民に繰り返し訴えました。
ユダヤ民族、レビ族は、司祭を司ってきました。
彼らはユダヤ12支族に属していません。
イザヤはレビ族を伴って、ユダヤ民族の大移動を先導します。
日本の神話に登場するイザナギとはイザヤのことでしょう。
イザヤとレビ族たちは、日本中を巡りながら、エネルギー的に強い場所を探索し、グリッドを結び、強力な結界を作りました。
国譲りに反対し、負けて、出雲から諏訪に逃げてきた建御名方神 ( たてみなかたのかみ)も当然ユダヤ人。
一万年以上にわたり、平和に暮らしていた縄文人たちは、戦い、というものを知りませんでした。戦いに慣れたユダヤ人が、彼らを征服することはそれほど難しくなかった、と思います。
諏訪にやってきた彼らは、縄文人たちが聖地と見なしていた強力なパワースポットである山をモレヤと呼び、彼等の御神体としたのです。そして、ミシャクジ神と繋がることのできた縄文人たちのシャーマンの長に守矢という名を与えた。
彼らは稲作を開始します。弥生時代の始まりです。
ユダヤ民族は、日本国内に強力な結界を築き上げました。
以来、その結界は破られたことがなく、外国からの侵略を阻止してきたのです。
豊臣秀吉が天下統一を果たす頃、ヨーロッパからイエズス会の宣教師たちがやってきます。
彼らの本当の目的は日本を征服するための調査と奴隷売買でした。
彼らが、奴隷売買のために多くの日本の婦女子を連れ去ったことを知った豊臣秀吉はバテレン追放令を発令し、宣教師たちを追い出しました。
宣教師たちは、その時、自国の国王に対し、現時点で、日本を征服することは難しいだろう、と書き送っています。
奴隷売買のことを知っていた徳川家康も豊臣秀吉と同じことをしました。
奴隷を売っていたのは、キリシタン大名たちでした。
不思議なことに学校ではこういったことを教えませんね。
それから約260年を経て、充分に準備を整えたヨーロッパの支配者層は、イギリスのフリーメイソンの一員であったグラバーを日本に送ります。
明治維新は、イギリスのフリーメイソンによって、仕掛けられました。
彼らは、日本という国が霊的な力によって、守られている、ということも知っていました。
大政奉還は、単なる権力者の交代です。
ところが、その後、起こった事は、日本から霊的な力を奪う事でした。
日本を守っていた結界は、神長官、神官、宮司を罷免し、多くの神社や寺を取り壊すことによって、破壊されたのです。
やがてイギリス資本により中央銀行である日本銀行が創設されます。
中央銀行とは通貨発行権を持つ民間の銀行です。
ヨーロッパの支配者による日本の金融支配が始まったのです。
そして日本は富国強兵を標榜し、戦争へと駆り出されていったのです。
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