【織田信長(吉法師) 誕生】 ~5月12日の出来事~ “戦国の帝王、生をうける” | 歴史ブログ

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過去の今日はどんな出来事があったのかを記した
「今日の出来事」。

歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。

~5月12日の出来事~

⬛【織田信長 誕生】⬛

天文三年(1534) 5月12日、
織田信長が信秀の嫡男として誕生する。

戦国時代の中心人物と言っても
過言ではない織田信長は、
この日、信秀の嫡男として
尾張・勝幡城(愛知県 稲沢市)に
生まれました。

信長の偉業やエピソードは
枚挙にいとまがありませんので、
ここでは幼年時代の逸話をご紹介します。



■【其 壱】

信長が吉法師と呼ばれていた頃、
清洲の寺へ手習いに通っていました。

寺には相弟子の童子が四~五十人ほどいましたが、
毎年 五月五日には童子たちが東西に分かれ、
石つぶてを投げ合い勝負を争う
「印地打ち」という行事がありました。

信長はこの遊びが大好きで、
毎年 五月五日には
母から筆墨紙の類に飯米 三斗、
永楽銭一貫文ずつを添え送られてきましたが、
信長はこれらの品々を
童子たちに分け与えて印地打ちをさせていました。

永楽銭を与えた者は働きが非常に良く、
更に功名を挙げると褒美として
また銭や品々を分け与え、
自分で蓄えることなく
全て皆で分かち合っていたといいます。

この様子を見た心ある者は、
この児は将来 名将となるだろうと言い、
舌を巻いて感心したそうです。




⬛【其 弐】

まだ信長が幼少の頃、
庭に出て遊んでいたところ、
小さな蛇が出てきました。

その蛇を掴んだ信長は側にいた近臣に向かい、
「こういう事を『勇』と言うの…!?」と
聞きました。

近臣がそれに対し
「小蛇の如くきは恐れるに足りません」
と答えると、

信長は、
「蛇の毒は体の大小とは関係ない。」
「只この蛇が小さいから恐れないという事は、もし主君が幼年であれば、汝らは侮るというのか!!」
と言い返しました。
近臣は大いに赤面したと伝わります。

さすがに信長、
やはり幼少時からも非凡なる話が
伝えられています。

その一方で自由な振る舞いが多く、
傅役(モリヤク)の平手政秀が諫死した話は
有名ですが、
信長はその後に行いを改め、
大敵・今川義元を破ってからは
破竹の勢いで天下統一へ向けて驀進します。




※【追伸】

織田信長の性格の一つに、
突き抜けた覇気があります。

本来、パーソナリティに属するのですが、
信長の場合、
身体能力と関係があるかもしれません。

信長は16歳から18歳にかけて、
積極的に武技に勤しみましたが、
その様子は信長公記にも描かれています。

朝夕に馬の稽古、
また3月から9月にまでは川で水泳、
弓の稽古、鉄砲の稽古、兵法の稽古、
また鷹狩りもした。

また、
信長が水泳が非常に巧みであったことも
記されています。

この優れた身体能力と、
鍛え抜かれた運動能力、
野山を駆け回り会得した知性で
後の「桶狭間ノ戦い」を勝利に導きました。

偉業を残す人の思考と行動は、
凡児には理解できないということですね。





⬛【天下を統べる才】⬛
~いざ出陣、「尾張の天才」~


天文三年、五月一二日……
(西暦1534年6月23日)


◾【序章】

日本史、戦国時代の歴史を
一度でも学んだ事のある者ならば、
一度は見た事があるだろう。

現代に生きる人々であれば、
この日に 生まれた人物の名は
幅広く伝わっており、
その人物を題材とした
作品、漫画、小説、テレビドラマ、
実に数多くの作品でも描かれている。

現在では
深く歴史を知らなくとも
その名を見れば、
知り得ていると答える者も
数多く存在する。

教科書を開けば
其の名を目にしない者はいない。

数多の資料を読めば偉大さの理由も
自ずと理解せざるを得ない。

歴史を紐解けば
たちまち脳裏に浮かび上がる人物。

題材となった作品を手に取れば
彼の強大さすら理解させられる。


天文三年の五月一二日、
その日付に生を授かった人物。

戦国時代という群雄割拠の時代に
天下布武を布き、
一躍天下人として名を馳せる事となった、
戦国大名にして最大の武将。

天衣無縫の如く敵対者を屠り、
天下統一の道を目指して
歩み続けた英傑が一人。

尾張の戦国大名・織田信秀が嫡男、
織田信長、その人である。

※『義侠心とは……』
正義を重んじ、強い者を挫き、
弱い者を助ける事。
漢達(オトコダテ)の事である。