「石田三成の惨敗を運命づけた、人格的 欠点とは…」 | 歴史ブログ

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過去の今日はどんな出来事があったのかを記した
「今日の出来事」。

歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。


【石田三成の惨敗を運命づけた、人格的欠陥とは…】


豊臣秀吉の最晩年、
石田三成は五奉行の一人として
豊臣家の執政的立場に就いた。

しかし秀吉にも死が訪れる。

これにより
三成は微妙な立場に追い込まれていく。

もしも三成が、
もう少し融通の利く人物だったら、
豊臣家は一大名として
江戸期も続いていた可能性が高い。

勿論、何代か後に養子を入れられ、
実質的に乗っ取られるか、
織田家、今川家、
関東足利家(喜連川=キツレガワ藩)様に、
数万石 程度の高家(コウケ)扱いになって
いたかもしれないが、
生き残っていたのは間違いないだろう。

しかし秀吉の死後、
三成は何とも困った存在になっていく。

三成は秀吉 没後も、
妥協よりも正義を優先し、
大局的見地から
豊臣家 全体の利益を考えなかった。

声高に
「太閤殿下の御恩」を叫んだところで、
これまで対立関係にあった
武断派大名たちが、
三成の求めに応じるわけがない。

豊臣家を後世に伝えていきたいなら、
秀吉の生前に、辞を低くして、
彼らに歩み寄っておくべきである。
それが出来なかったところに
三成のリーダーとしての限界があった。

慶長4年(1599)・閏3月、
徳川家康と三成の間に立ち、
緩衝材的役割を演じていた前田利家が
病没することで、事態は動き始める。


早くもその夜、
加藤清正や黒田長政に加えて
池田輝政や福島正則といった
武断派大名7人が三成を襲うという
事件が起きた。

襲撃は未遂に終わったが、
「喧嘩 両成敗」を持ち出した家康により、
三成は失脚させられ、
自領のある近江・佐和山に
退隠させられる。

秀吉の死後は勿論だが、
利家 死後のシミュレーションが
出来ていない点だけ取っても、
三成に先見性が無かった事ことは
否めない。


一方、武断派の決起を利用し、
家康は豊臣政権の実質的執政となる。

この時点で公儀(政権担当者)は
家康となり、
それが後々まで三成の足枷となっていく。

家康は、
自らの仮想敵となり得る勢力を
各個撃破していく段階に入った。

既に家康は59歳であり、
残り時間はさほどない。


慶長5年4月、
家康が会津の上杉景勝に対して
上洛命令を発し、
景勝がこれを拒絶することで、
会津への出征が決定する。

6月、
家康は諸大名を率いて
大坂城を出陣した。

むろん背後で
三成が挙兵するのは予想の範疇である。

一方の三成は、
一旦、江戸城に入っていた家康が、
会津に向け出陣したという
報告を受けて挙兵した。

この後の展開は、
諸書で語り尽くされているので
割愛する。

何れせよ、
三成は関ケ原で大惨敗し、
処刑されることになる。


“三成の敗因は奈辺(ナヘン)にあったのか”

戦略、戦術論や残された記録などから、
その人格的 欠点を考えてみよう。

●管理統制志向が強く、
何事にも厳格で、融通が利かない。

●嫌悪の情が激しく、一旦 嫌いになると
歩み寄らない。

●場の空気が読めず、
相手の気持ちに対する洞察力に欠ける。

●対症療法的発想から脱せられず、
先を見越した行動が取れない。

●交渉事では完全勝利を目指し、
妥協点を見いだそうとしない。

●何かに失敗しても
自責で考える事はなく、他責で考える。

●思い込みが激しく、自負心が強いた為、
方針の修正もしない。

ざっとであるが、
挙げると 以上である。


三成も長所や美点はあり、
三成は嫌いではない。

しかし、結論として、
「豊臣家滅亡の責任は三成にある ‼」
と、断じざるを得ない。

三成が、
もう少し大局的 見地に立って
豊臣家の存続を考えていれば、
豊臣家は滅亡せず、
家康も徳望ある大人物として
青史に名を刻み、
三成自身も困難な舵取りを担った
執政として、
地味ながらも名を残したはずである。

それを思うと、残念でならない。

敗者には、
必然的に敗者となり得る
人格的 欠陥がある。

それを証明してくれた一人が、
石田三成なのである。