「大坂ノ陣 終結」 ~5月8日の出来事~ “豊臣家 滅亡” | 歴史ブログ

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過去の今日はどんな出来事があったのかを記した
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歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。


~5月8日の出来事~

大坂ノ陣  終結
豊臣家  滅亡

元和元年(1615)5月8日、
大坂城が落ち、
豊臣秀頼、淀殿はじめ生き残りの諸将は
炎上する城内・山里曲輪で自害。
秀頼 享年23歳、淀殿 享年49歳。


豊臣秀頼は文禄二年(1593)八月三日、
秀吉の二男として
大坂城の二ノ丸に生まれました。

秀吉には天正十七年(1589)に
鶴松という男子が生まれていましたが、
わずか三歳で夭逝していた為、
秀頼の誕生を知った秀吉の喜びは
非常なものでした。

母の淀殿は秀吉の側室で、
鶴松の母でもあります。

織田信長に滅ぼされた浅井長政の娘で、
永禄十年(1567)に近江・小谷城で生まれています。

慶長三年(1598)八月に秀吉は没しますが、
病床についた秀吉は
五大老(徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家)
に対し、
なりふり構わず秀頼の行く末を頼みました。

しかし名実ともに五大老筆頭であった家康が
不穏な行動を始め、

やがて同五年九月、
対立した石田三成と関ヶ原で激突しました。

結果的には戦いに勝った家康が
不動の地位を固め、
やがて天下人となるのですが、
考えてみれば不思議な戦いでした。

両軍とも「秀頼のため」を大義名分と
していたからです。

この戦いは秀頼にも大きな影響を与えました。

家康との力関係は逆転し、
その存在は単に摂津、河内、和泉で
六十五万石を領する一大名となって
しまったのです。

大義名分に反して家康は
同八年二月に征夷大将軍となり、
江戸に幕府を開きます。

秀頼は家康の孫・千姫を妻に迎えますが、
家康の上洛要請には
母・淀殿の頑強な拒否もあり
従いませんでした。

しかし周囲の説得もあり、
同十六年三月に両者は二条城で会見します。

これにより
事態は好転するかと思われましたが、
秀頼を支えた加藤清正、浅野幸長らが
次々と病死、
再び暗雲が立ちこめます。

秀頼の存在が目障りな徳川家康は、
方広寺の鐘に刻まれた
「国家安康君臣豊楽」という文字を
「家康の文字を断ち切り、豊臣氏を主君として楽しむ。」
「即ち徳川家滅亡を願い、呪ったものである」
という、
無理矢理の解釈をし難癖を付け、
ついに大坂討伐へと動き、
「大坂ノ陣」が勃発しました。

秀頼は真田信繁(幸村)、後藤又兵衛、
長宗我部盛親たちをを招き対抗しますが、
大野三兄弟(治長、治房、治胤)や淀殿たちは
彼らを「所詮は浪人上がり」と信頼せず、
幸村の献策した迎撃策を却下、
籠城策を採りました。

大坂方は善戦しますが、
後詰めの無い籠城に勝ち目はありません。

一時的な和議が結ばれたものの、
全ての堀を埋められ丸裸にされた大坂城には、
最早、徳川方の攻撃に耐えるだけの
防御力は残っていませんでした。

この日 ついに、
城内に徳川方の兵が雪崩れ込み、
天守閣は炎上します。

秀頼は山里曲輪に避難していましたが
淀殿と共に自害、
ここに豊臣家は滅亡しました。