【天下を統べる才】 ~5月12日の出来事②~ “吉法師(織田信長) 物語】 | 歴史ブログ

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過去の今日はどんな出来事があったのかを記した
「今日の出来事」。

歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。

⬛【天下を統べる才】⬛
~いざ出陣、「尾張の天才」~


天文三年、五月一二日……
(西暦1534年6月23日)


◾【序章】

日本史、戦国時代の歴史を
一度でも学んだ事のある者ならば、
一度は見た事があるだろう。

現代に生きる人々であれば、
この日に 生まれた人物の名は
幅広く伝わっており、
その人物を題材とした
作品、漫画、小説、テレビドラマ、
実に数多くの作品でも描かれている。

現在では
深く歴史を知らなくとも
その名を見れば、
知り得ていると答える者も
数多く存在する。

教科書を開けば
其の名を目にしない者はいない。

数多の資料を読めば偉大さの理由も
自ずと理解せざるを得ない。

歴史を紐解けば
たちまち脳裏に浮かび上がる人物。

題材となった作品を手に取れば
彼の強大さすら理解させられる。


天文三年の五月一二日、
その日付に生を授かった人物。

戦国時代という群雄割拠の時代に
天下布武を布き、
一躍天下人として名を馳せる事となった、
戦国大名にして最大の武将。

天衣無縫の如く敵対者を屠り、
天下統一の道を目指して
歩み続けた英傑が一人。

尾張の戦国大名・織田信秀が嫡男、
織田信長、その人である。

※『義侠心とは……』
正義を重んじ、強い者を挫き、
弱い者を助ける事。
漢達(オトコダテ)の事である。




⬛【其1】



那古野城にて、
尾張国の戦国大名・織田信秀と、
継室である土田御前との間に生まれた
織田信長は、
幼少期には、
『吉法師』と呼ばれた。

その幼少期、
戦国大名の地位にある
織田家の嫡子で在りながら、

また、
二歳という幼さで
那古野城の城主となりながら、

己が身分に拘ることなく
民と同じような衣服を着て
民たちと戯れていた。

周囲からは、
織田家の嫡男とは思えない
衣服を着ていても、
戦国大名の地位を名乗る
織田家に恥じない振る舞いであった
という。

奇妙な言動があったとすれば唯一つ、

それは、
民が、どのように過ごしているのか…

民が、どれほどの苦労を要して
今を生きているのか…

そして、
その言動が地位や権威ある者たちと
どう違うのか……と、

吉法師は、常々思っていた、
ということくらいか。

生と死が常に隣り合わせの
戦国時代の真っ只中に生まれた彼は、
今を、どう生きるかという事を
考えたことはない、

逆を言えば、
先にも述べ他様に
今の自分が其処らに存在する民と
どう違うのかを考える事の方が
多かった。

大名だとか、民だとか、
誰が、そんな区分をしたのか、
今の幼い吉法師には
自分と他人とを
区分され違えられている現状が
気に入らないようであった。

かつて、吉法師は、
民と触れ合うに連れて
この様な事を よく言っていた。

[吉法師]
「私には、分からぬ事がある。」
「私と君たちは
同じ衣を纏っているというのに、
家柄が違うというだけで
何故こうも差があるのか…」

しかし、
吉法師と関わる民たちは、
この言葉の真意を汲み取る事を
とても難儀とした。

それでも敢えて一言、
吉法師の言葉に対して
民の一人がこう返した。

[民の一人]
「吉法師様に分からぬ事なら、
俺たちにそれが分かる筈も無かろう。」

当たり前のように言葉にされた
民の一言を聞き、
吉法師は不思議にも首を傾げた。

[吉法師]
「何故、私に分からぬ事が、
君たちにも分からぬと言えるのだ。」
「同じ人の形なりをした者同士であるのに、
人に分からぬ事は、自分でも分からぬと
言い切れる道理も、私には分からぬ。」

その悩みを共通できる者は
残念ながら民の中にはいないらしく、
吉法師は、この事について
悩み続ける事となる。

自然とそれは、
吉法師の口癖のようなものだと、
吉法師に関わる民たちは
そう理解せざるを得なくなり、

吉法師の悩みは全く解消されないまま
幼少時代を過ごす事となる。

しかし、
そのような事を幾度も聞きながらも、
民たちは、彼と戯れる事をやめなかった。

戦国大名の嫡子の大半は、
その地位や権威を振り翳し
武力を誇示していたとされているが、

同様の立場に身を置く吉法師は、
その地位や権威を以って
民と戯れていたわけではなく、
ただ純粋に
自分とは何一つ違わない
同じ人との関わりを大事にしたいと
思っていた。

そして、こうも思っていた。

地位や権威に甘んずるという事は、
即ち、自らの本質が
そこにしか存在していないからであり、
己という人間でありながら
己という人間を、
何一つ理解していないのだと。

そして 其れは、
父・信秀をも指していた。

[吉法師]
「私が私である理由を、
家柄や地位などに奪われてなるものか!」

それは、
一般的に捉われている
「うつけ」のイメージとは違いながら、
そのイメージに違わぬ思想であった
とも言える。

吉法師が
奇妙だと思われていたのは、
吉法師と戯れていた民たちが
よく耳にした、
あの悩みの事くらいであったという。

吉法師の悩みとされる
『自分と他人との差』は……
今後の吉法師が
群雄割拠の時代を生き抜くにあたり
非常に強い動機付けとなる事は、
まだ先の話である。




⬛【其2】


当時の尾張は、
現在でいう愛知県・西部に相当する。

愛知と聞けば
連想する戦国武将も存在するのだが、
その武将が歴史に踏み出す話は
まだまだ先となるため、
今の時点では割愛する。

さて…… 

民と戯れ、
織田家の嫡男としての教育を
平手政秀から受け、
内外問わずの生活を繰り返すこと数年。

未だ世子としての立場である吉法師は、
何を思ったのか、
突然ともいえる行動力で
清洲城に単騎で火を放った事がある。

事実は確かに単騎なのだが、
信秀は、これを我が子のみが起こした
行為であることを隠し、
事態を追求された折に
「単騎」としてではなく
「数騎」として起こされたものである
として解釈させた。

吉法師が何故、
「単騎」で、
その行為に及んだのかという
話になるが、
前項にて述べた通りの悩み事を
四六時中、抱える事となっていた事が
要因とされる。

それを解決できないでいる感情が
不満として蓄積し、
それが限界に来たからではないかと、
吉法師と、戯れている民たちの間では
囁かれていた。

この時、吉法師は信秀に、
行為に及んだ理由を説明する。

その内容は、
民たちの間で囁かれていた内容と
ほぼ一致しているが、
一部を正確に表すならば
『限界に来た』のではなく、
『事を起こせば、
   分かる可能性に賭けてみた』
という事である。

実に、豪胆な話だ。

信秀は
吉法師から事の始終を聞き終えると、
複雑そうな表情で息子にこう向けた。

[信秀]
「自分と人が違うという理由は
成長と共に
自ずと理解できるものだ。」
「今のうちから、その様に、
理解を急ごうとしてしまっては
理解できよう疑問も
理解に足らなくなる事だってあるのだ。」
「お前は、武芸も頭脳も
何処の誰よりも秀でてはいるが、
物事を急く癖があるな。」

この言葉を聞いた吉法師は、
その悩み事を解決するのは
時期尚早という事を まず理解し、
また、悩み事に関して
時間を割く事を少なくしたという。

それから また、
時を経て 天文一五年の頃、

その年に吉法師は
古渡城にて元服を遂げ、
自身の名を『織田三郎信長』と改める。

三郎の名を呼称していた期間は
かなり短かった様ではあるが、
どれほど短かったかは定かではない。

元服してからも
信長は人と接するにあたっての礼儀を
忘れないようにとの志を持っており、

作法なども一通り習得し、
織田家の嫡男として立派に成長していた。

また、
相も変わらず民と戯れているが、
礼儀も心得ながら
またも民と同じような衣服を
身に纏っている点に於ては、
幼少時の心も忘れずに
大事にしている様相が伺える。

昔、信長がよく言っていた
あの悩み事を聞かなくなって
数年経つ事に気が向いたのか、
民の一人は信長に問うた。

[民の一人]
「吉法師よ!」
「あの悩みの件については
どのように整理をつけたのだ……!?」

唐突だった其の言葉に対し信長は、
気に留める事も無く、

[信長]
「自然と理解する時を待っているだけだ。」
と、普段通りの口調で返答した。

[民の一人]
「自然とか……」

[信長]
「何か、物が言いたげだな…!?」

[民の一人]
「否、口癖の様に、来る日も来る日も
同じ事を呟いてたあの頃を思い出して、
すっかり見違える様な事を
言うようになったなと……」

[信長]
「時を重ねれば人も成長する、
そして成長すれば
自ずと見えてくる事もあろうと、
父に教えられてな。」

[民の一人]
「なるほど。」
「其方の父君は、
子を諭せるくらい良き父君である事が
伺えるな。」

[信長]
「私は、どうなのだ…!?」

[民の一人]
「まだ発展途上だろう……」
「事を急ぐなと教えられているのなら、
その件に関しても急ぐ必要は無いと
思うが…」

[民の一人]
「そうだとも、吉法師。」
「物事をハッキリさせておきたいと願う
君の人格の善し悪しを
我らが論じる必要はないし、
その解を早急に求める必要もまたない
という事だよ。」

[信長]
「むう。」
「私は、まだまだ未熟という事か。」

[信長]
「昔は君たちも、
『吉法師に分からぬ事は、私らにも分からぬ』
と言っていたものだが、
時は人の心を
こうも変えるのかと思うと
喜ぶべきか 悲しむべきか
複雑な気持ちであるな。」

[民の一人]
「それについては同感だ。」
「しかし、時が人の心を変えるのなら、
吉法師も昔と変わった意見を
述べられるのではないのか…!?」

[信長]
「確かに。」
「だが、その前に一つよいか……」

[民の一人]
「一つとは……」

[信長]
「私は、既に元服した身じゃ。」
「吉法師ではなく、
信長と呼んでくれまいか…」

[民の一人]
「アッ!、これは失礼した。」
「ワハハハハ……」

笑いながら民と共に、話に花を咲かせ、
気楽に戯れられるというのは
現代の文献、作品を手に取るだけでは
到底想像も出来なかったであろう。

信長は自らが成長を重ねるにつれて、
抱えている悩み事に関しても
何れ解決できる日が来るのだと、
あの頃の、父の言葉を信じた。


それからまた一年を経た、
天文一六年。

織田氏に
何者かが護送されたという
知らせがあった事を
信長は後ほど耳にした。

話によれば、
今川への護送の任を負っていた
戸田康光なる武将が、
織田氏に七五〇貫相当の金銭で
今川に護送されるはずの六歳の人質を
売り払ったのだという。

ちなみに、当時の七五〇貫は、
米量価として現在の価値に換算すると、
おおよそ三〇億ほどであるという。

[信長]
「六歳の子を、織田に……!?」

信長は、
その事態を耳にするや否や、
その六歳の子とやらが
現在保護されているという場所に向け
走り出した。

正しきを常とする織田家であるが故に、
この様な事態が起こる事は
珍しいとされていたようである。

しかし忘れてはいけないのが、
今は戦国乱世だということ。

一刻も早く無事を確認するために
信長は駆けた。

織田の那古野城の客間にて
保護されているという六歳の子。

六歳の子は、信長が辿り着いた時、
その姿を見て思わず声を上げそうに
なったという。

信長は肩で息をし、
履物のない足に傷を作り、
衣服は所々破れていたそうだ。

那古野城より離れた場所で
耳にしたようで、
無意識に即座に踵を返した為、
履物を履く事すら忘れ
一番の近道であった僅かな獣道を
全力で駆けてきていた。

衣服に関しては偶然ではあるが、
民と同じような衣服であったので
多少破れていても自然に見えたので
その点は不思議には思われなかった。

[六歳の子]
「アッ…!、だ大丈夫ですか…!?」

その姿に思わず心配したのか、
六歳の子は信長に向け
その身体を気遣った。

しかし信長は、

[信長]
「お、お主こそ、御身は無事か…!?」

と、肩で息をしながら
目の前の子に向けて問い返した。

[信長]
「い・今しがた、事を耳にしたのでな……」
「まさか、六歳ほどの幼子を、
織田に売りつける等という事があっては
幼子が、余りにも報われぬと思うてな…」

[六歳の子]
「そ・それが僕にとっても、予定外な事でして…」

[信長]
「ふう……」
「ふむ、確かに予定外といえば予定外だ、
まさか織田に御主の様な幼子を
売りつける輩がいるなど、
どうかしている……」

[六歳の子]
「そうですね……」

[信長]
「しかし何故、
今川に護送されるはずの御主が
此所に売られたのかが気がかりで
ならぬな…」

[六歳の子]
「僕、人質なんです。」

[信長]
「人質……」
「まさか、今川の将により売られたのは…!?」

[六歳の子]
「随分とお察しのよい方で、
話しやすくて助かります。」

[六歳の子]
「どうやら僕は、
今川氏の人質として差し出されるところを
利用されただけみたいです。」

[信長]
「何と、酷いことを……」

[信長]
「そうじゃ!」
「御主が無事に元の場所に戻れるまで、
私が御主の話し相手となろう。」
「きっと、その方が寂しさを
紛らわせるであろう。」

[信長]
「御主、名は何と言う…!?」

[六歳の子]
「………ま……」

[信長]
「ま……!?」

[六歳の子]
「松平竹千代と申します。」

これが、その時に行なわれた、
十三歳の信長と
六歳の松平竹千代と名乗る子との
会話の始終である。

今川氏に人質として
護送されるはずであった竹千代が
織田に売られたことで、
両者は巡り合わせたように邂逅した。

そして、
この松平竹千代なる人物が、
今後、戦国時代が進むにあたり、
信長率いる織田勢と
盟約関係を固く結ぶ事となる。

後の徳川家康、
其の人である事を、
この時点で信長は知る由も無い。




⬛【其3】

幼少期を共に過ごしていく
信長と竹千代。

いつしか竹千代の表情にも
笑みが浮かぶ程の仲となり、
両者は、来る日も 来る日も
他愛も無い雑談を広げては
交流を深めていった。

[信長]
「握り飯を持ってきたぞ!」

[竹千代]
「その様な気遣いは無用ですと
申し上げましたのに。」

[信長]
「私が好きにやっている事じゃ。」
「気にする理由などないだろう。」

[竹千代]
「信長様は、非常にお優しいですな。」

[信長]
「優しいだけが取柄の人を
私は優しいとは呼ばぬが、
竹千代が私を
その様に評するという事は
好意から出たものとして受け取ろう。」
「嬉しく思うぞ。」

[竹千代]
「ははは、時に辛辣な事も仰る。」
「しかし、時代は貴方の様な者を
求めておられるやも知れませぬな。」

[信長]
「それは聊か
買い被りが過ぎるとも取れるな…」
「たかが一介の戦国大名の息子を、
時代が求めているというのも
おかしな話だ。」

[竹千代]
「ですが、私の眼には
そのおかしな話が目に見えるようです。」

[信長]
「竹千代も口が上手いな。」
「その口達者さが あるにも関わらず
今川氏に人質として送られようとは、
私なら考えたくない…」

[竹千代]
「仕方ありませぬ。」
「松平は、今や衰退の一路を辿っている
最中であります故に。」

[信長]
「その様に、自らを顧みない精神は、
齢六年にして、
既に成熟している様にも見受けられるな。」
「竹千代の父君は
実に良き息子に恵まれたと思う。」

[竹千代]
「持ち上げて頂いて、何ですが、
織田の嫡子である信長様も
外見にそぐわぬ高き智勇かと…」
「私には到底及ばぬ世界を
目前と眺めているようで、
羨ましいと思う限りで御座います。」

[信長] 
「互いが 互いを
持ち上げるような会話をしていても
始まらぬがな。」

[竹千代]
「然り、ですね。」

この様に、
信長と竹千代の間には
既に友情すら見える様にも思われる会話が
日々続いていた。

竹千代は信長の器量と義侠心に、
信長は竹千代の覚悟と伸び代を
互いに感じ取っていたようである。

この日々が続いている間にも、
信長の父・信秀は、
「安城合戦」や「小豆坂乃戦い」などデ
奮闘しており、
奇しくも竹千代の父である広忠が
対立相手の一人として立ちはだかっていた。

信長は織田が抱える事になった
人質としての竹千代を
とても不憫に思い、

また自らの父と
竹千代の父が対立している事を
父の家臣から聞かされておりながらも、
尚、竹千代の身を案じていたとされる。

竹千代もまた、
衰退傾向にある松平氏と共に
今川氏に従属していたとされる
戸田康光により
自身を織田に売られた事に対し
覚悟を決めていたものの、
突然の報を聞き
己の身体に傷をつけながらも
自分を心配してくれた信長に対して
友好の意を示し出す様になったという。

互いの父が対立していようと
全く関係がないと言わんばかりの
両者の仲は、
父同士の対立を物ともしない絆として
紡がれつつあった。

傍らから見れば、
信長と竹千代は兄弟のようにも
見えたとされる。

[信長]
「竹千代が安堵していられる様に、
私は何時でも、竹千代の元を訪れよう。」

[竹千代]
「しかし、それでは、
信長様の時間を奪っている様で
なりませぬ。」

[信長]
「然様な事を気にしていても
時は戻らぬし、
消費した時を憂う理由にもなら奴。」
「だが、もしも私が憂う理由が
あるとするなら、
それは家柄に縛られている
互いの関係にあると思うぞ。」

[竹千代]
「関係……」

[信長]
「そうじゃ!」

[信長]
「人の関係とやらは
強靭で野太くもあれば、
脆弱で、か細くもある。」
「全ては、其れらを築く人同士の交流に
他ならない。」
「人が善意を以って示せば
自ずとそれに惹かれて
時を同じくする者が現れる様に、
人が悪意を以って示せば
自ずとそれを廃しようと
時を分かつ者も同様に現れるだろう。」
「だからこそ人は、
自らの立場や地位などを以ってして
示すものだが、
それらを悪用しようとすれば
それに対立すべしと決起されても者の
一言いうに値しない。」

[竹千代]
「つまり、
僕らが今この時でこの様なに
言葉を交わせるという事もまた、
人の関係を築く為の標であると…!?」

[信長]
「ん……」
「人の関係を築く為の標というのは
言い得て妙でもあるが、
正確に言い換えるとするならば
『人と関係する為の手段を育む為の方法』
と言えるかな。」

[竹千代]
「なるほど。」
「とすれば、
その手段を善用するも悪用するも
全ては、それを育む人次第、
というわけですね。」

[信長]
「そうなるな。」

[竹千代]
「でしたら、僕が信長様と出会えたのも、
その手段を育むべくして
出会ったのだという解釈もできますな。」

[信長]
「ははは……、それもそうだな。」
「竹千代が織田に売られなければ、
竹千代が
どのような人物になるかどうかすら
私は知り得る事が出来なかったやも
しれぬしな。」

[竹千代]
「信長様が、
日々、僕の元を訪ねてくる理由が、
分かった様な気がします。」

[信長]
「出来れば気がするだけでなく、
本当の意味で分かって欲しいものだが…」
「まあ、急いでも
答えが追いついてくれぬ事には
それも まだ叶わぬ話か…」

信長と竹千代 …………
両者が盟約を結ぶまで
然程、時を要さなかったのは、
この幼少期に交わされた
数々の言葉によるものであると
何れ理解に至るのである。

織田信長と徳川家康の
固き盟約関係の根源……

その根強い絆は、
この交流から生まれたといっても
過言ではない。




⬛【其4】

ここまででも分かる様に、
信長は、
初めから第六天魔王と呼ばれていた
わけではなく、
むしろ、
その名を冠するには程遠いとされる
真面目で純朴な少年であったとされる。

現代の誰もが知る織田信長も
人間である。

当然、歴史上の偉人が、
生まれた瞬間に偉人となるわけではなく、
では、どのようにして
偉人たりえるのかというと、

歴史に偉人として名を刻む人々は
この世に生まれてから
歩む人生の節目を自ら選び、

その先にある課題や立ちはだかる壁を
幾度と無く乗り越え続け、

更に
先にある経験と実績の結果を手に入れ、

またそれらが
人から人へと語られる事で
名を広め成果を認められる事で
初めて偉人たりえるとされる。

これは、
どの偉人にも例外はないが、
しかし、
そう呼称されるまでの過程のバラつきは
人としての知育や経験に基づく
才能の開花が早いか遅いかの
違いであるとされる。

偉人となった時には
既に高齢だった偉人も存在するし、
逆に偉人と呼称していいものか
分からない幼年の子が
既にその地位を確立していたという
偉人も存在するだろう。

決して楽に発想が生まれたり、
実力が付いたり等という、
自然的な事で、
偉人という名称を冠する事が
出来るというわけではない。

中には、
ごく自然な事をしていたからこそ
偉人になったという
極めて珍しい例も
もしかしたら存在するかもしれないが、
極めて珍しいという表現をしている
以上、
その様な事象が滅多に起こる事はない。

織田信長という偉人もまた、
偏に天下を目指し、
日々、戦場に立ち
偉人の名を勝ち取ってきたか
という事だろう。

そんな信長も、
幼少期の事は余り多く語られていないので、
真には義侠心溢れていたのかも
しれない。

義侠なくして、人後ろに連ねず。

織田信長という人物像を
多彩な角度から眺め直してみるというのも、
歴史を学ぶのに
よい経験になるのではないだろうか。

父・信秀と、母・土田御前の子。

民の衣服を羽織り、民と戯れていた日々。

清洲城に単騎で火を放った
豪胆さの片鱗。

出会うべくして出会った
松平竹千代との日々。

信長の人生は、ここで留まらず、
日を追うごとに
極彩ともいえる数々の物事を
経る事となる。

信長は何時しか、
この様な評価を境に
世の中に己の名を広める事となる。

『義侠心を備えた天下の才』、
『慈愛溢れる、織田の申し子』
と……




⬛【其5】


信長、竹千代との初対面から、2年……


[竹千代]
「信長様……」
「私はいつか、
貴方様から頂戴した恩義を胸に、
必ず貴方様の下に馳せ参じる事を
御約束します。」

[信長]
「恩義は言い過ぎだと思うが……」
「しかし、竹千代の心は
私の胸に深く刻み込んでおこう。」
「しかし、私の下ではなく、
艱難辛苦を共に乗り越えられる様に
私の隣まで駆け寄って貰いたいものじゃ。」

[竹千代]
「御隣まで馳せ参じよとは
また恐れ多い。」

[信長]
「まだ七・八年ほど、
時が離れているだけであろう、
恐れる必要も、躊躇する必要もない。」

[竹千代]
「自らを省みながら
他者への気遣いも忘れないとは、
この竹千代、また学ばせて頂きました。」
「私は、
その心を生かしながら人生を歩み、
来るべき時には必ず……
必ず、馳せ参じます。」

[信長]
「隣までな……」

[竹千代]
「はははは……、分かりました。」
「貰い受けた恩義と言葉を胸に、
御隣まで!」

[信長]
「互いに気をつけようぞ……」
「名残惜しいが、ではな……」




⬛【其6】

織田信長という人物が
どのような人物であるかと聞かれれば、
大抵の人は
次のような意味を持つ言葉を
口にするだろう。

▪天下布武を布いて
天下統一目前まで上り詰めた覇者。

▪『鳴かぬなら 殺してしまへ不如帰』
との言葉通り、
家臣や従属武将など
各々の力量を発揮できないものを
容赦なく裁く非情の将。

▪敵対する者は
一人として生かして返さない
第六天魔王。

▪武田の騎馬軍団を壊滅させた
銃火器の使い手。

これだけを見ると、
やはり、
その人物名だけを聞いても
壮大だが、非情のイメージが強い事が
理解できる。

しかし、初めから、
そのイメージを想起できる様な
人物像ではないという事を
改めて書き残しておきたいと思う。

世間一般のイメージに対して
付け加えるが、
後世となる現代には
ルイス・フロイスという
イエスズ会の宣教師が
信長の人物像を
かなり明確に記した文書が
確認されている。

外見に関しては、
以下の様に記されている。

▪「東洋の人間としては小柄ほどの背丈、
体躯は外見だけでは分からないが
女性の様に華奢であり、
その体躯に加えて
三十数歳でありながら
髭は目立たないほどしかなく、
更に加えれば、
その声も甲高く、
羽織る衣が違っていれば
男性とは分からないだろう。」

女性と間違われても
仕方のない外見でありながら、
天下統一目前まで上り詰めたというのだ。

その様な内外問わない豪胆な話は
歴史を紐解いても
余り類を見ないことだろう。

この文書の内容に描かれている
信長の外見は、
実に的を射たものであり、
当の本人も幼少時代に
民と戯れていた時期に
多く言われていた事も合わせると、
宣教師たるフロイスは
実によく人を見ているかが分かる。

同世代の人物と比べて小柄な背丈、
一見すれば女性と見紛見紛う程に
華奢な体躯、
現時点では、まだ若い事もあるが、
それを差し引いても
髭などは目立たず、
声音もまた 男性にしては甲高く、
前述した
文書の内容と照らし合わせても
違いは見受けられない。

しかし佇まいは、
他の戦国大名・武将などに
見劣りせぬほど凛々しく、

振る舞いは
悪評酷評の多い戦国時代でありながら
真面目であり、

知能や武勇の片鱗は
他の系統の嫡子兄弟と比べて
非常に強く見られ、

心意気に至らば
義侠心に溢れているなど、

現代に伝わる
一般的な俗説イメージとは
遠くかけ離れている。