「島 左近 生まれる」 ~5月5日の出来事~ “鬼左近、生をうける” | 歴史ブログ

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過去の今日はどんな出来事があったのかを記した
「今日の出来事」。

歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。



~5月5日の出来事~

⬛【島 左近(清興)  生まれる】
~鬼左近、生をうける~

信憑性にはかけるが
『和州諸将軍伝』によれば、

天文九年(1540)5月5日、
「島 左近 友之」が生まれる。



石田三成の名参謀として知られる
島 左近は、
一説に、この日生まれたとされます。

但し、
これは『和州諸将軍伝』という
俗書に見えるもので、
信頼のおけるものではありません。

左近は
初め筒井氏に属していましたが、
天正十八年(1590)の豊臣秀吉による
小田原攻めの少し前あたりに
石田三成の下に移ったものと
考えられます。

その後、左近は三成を支え、
やがて関ヶ原で徳川家康と
戦うことになりますが、
そこで左近の消息は途絶えます。



◾『被弾し倒れる』
「関ヶ原合戦大全」、「落穂集」、
「黒田家譜」、「故郷物語」、……など。

◾『戦 死』
「関ヶ原合戦誌」、
「関ヶ原合戦大戦」の一説、
「関ヶ原軍記」、「戸川記」……など。

◾『生死・行方不明』
「関ヶ原状」、「慶長年中ト斎記」、
「武徳安民記」……など。

◾『佐和山城で自刃』
「福島大夫殿御事」

◾『対馬へ脱出』
「関ヶ原軍記大全」

◾『西国へ脱出』
「石田軍記」、

実に様々な記録が残されていますが、
現在は戦死説をとるものが多く、
後の状況からも
そう考えるのが妥当でしょう。

ただ、
「慶長八年の合戦図」(典拠不明)に於て、
琵琶湖の竹生島に
「十六日夜島左近宿す」
との記述があること(「関ヶ原町史」)、

左近の墓がある
立本寺教法院(京都市上京区)の過去帳に
寛永九年(1632)六月二十六日 没
とする記録が残されている事から、
生存説も
完全に否定する事は出来ません。

更に同町史では、
母と共に京都にいた
左近の二男・彦太郎忠正が
関ヶ原の敗報に接し西国へと逃れ、
坪島彦助と改名して
安芸・西条四日市に住んだと
紹介しています。

この坪島家は
現在、島姓に戻っていますが、
御当主のお話によると、
彦太郎忠正までは
家伝で遡れることは出来るが、
左近の事は
あくまで「物語的歴史」の域を出ない
との事です。

この他に、
北近江・奥川並村へ逃れたが
村人に殺された、
美濃を経て、陸前へと逃れ、
浜田甚兵衛と変名した、

遠江・天竜郷に潜伏した
等という伝承もあり、
出自と共に
その終焉もまた謎に包まれています。






⬛【「島 左近」   列伝】
~「鬼 左近」と称された猛将~

上記のとおり、
島 左近(シマ サコン)は、
島 政勝の子として1540年5月5日に
誕生したとされるが、
出自については
大和国・平群郡ともいわれる。
(詳細不明)

尚、島家は奈良の
椿井城、西宮城を本拠にしていたと
考えられる。

筒井順慶の家臣だったようで
1571年、「辰市ノ戦い」の直前に
「嶋左近尉殿」と、
島 左近の名が初めて見受けられる。

但し、
それ以前から筒井順慶と
松永久秀との「筒井城ノ戦い」、
「東大寺・大仏殿ノ戦い」などで、
軍略を磨いていたものと推測できる。

功績が認められ
松倉重信らと筒井家の重臣となり、
「信貴山城ノ戦い」にて
筒井順慶は松永久秀を倒した。

しかし、主君の死後に、
筒井家の家督を継いだ
筒井定次の非道政治に絶望し、
1588年2月に出奔すると
近江に去り 浪人生活を送った。


島 左近(嶋左近)には
仕官の話がたくさんあったとされるが、
その中でも熱心だった
石田三成に仕える決意をした。

有名な話では、
4万石の石田三成が
知行の半分である2万石で
島 左近を召抱えたとされる
逸話がある。

但し、
島 左近を召し抱えた時、
石田三成はすでに
佐和山城19万石であると考えられるが、
それでも破格な待遇にて
1592年より前には迎え入れられたようだ。

そして石田三成と共に
朝鮮出兵したものと推測されている。

『三成に過ぎたるものが二つあり、
   島の左近に佐和山の城。』
と豊臣秀吉から称されたと言われている。



⬛【関ヶ原ノ戦い】

1600年、「関ヶ原ノ戦い」の前日、
徳川家康が
本陣を美濃の赤坂まで進めた際、
島 左近は兵500を藪のなかに潜ませ、
中村一栄、有馬豊氏の両隊を攻撃し、
明石全登と共に勝利した。
(杭瀬川ノ戦い)

そして、大垣城での軍議にて、
その夜に島津義弘、小西行長らと共に
「夜襲」を提案した。

この様に、
島 左近は石田三成の為に、
いくつも名策を出したが
受け入れられずに、
翌日、関ヶ原ノ陣を構える事に決する。

「関ヶ原ノ戦い」では、
石田三成の側で指揮に当たったが、
小早川秀秋が寝返ると
島 左近は、自ら前線にて奮戦したと言う。

そして、
勇猛果敢に戦った島 左近は討死、
戦場の露と消えた。


最後に関しては、
黒田長政の鉄砲隊に銃撃され
負傷したあと死去した。

正午過ぎ、
小早川秀秋の寝返りで
西軍は総崩れとなり、
島 左近は
黒田長政および田中吉政の軍勢に突撃し、
「鬼 左近」と恐れられるほど奮戦したが、
銃撃により討死した。
とする説がある。

但し、大谷吉継の首級と共に
島 左近の首も遺骸もみつからず、
京都の立本寺に
1632年6月26日・没の
島 左近の墓がある事から、
生き延びていたとする説もある。

尚、島 左近と戦った徳川勢の兵には、
壮絶な戦いを挑んできた
「左近の悪夢」に長年苦しんだ
と言う話もある。



ちなみに、
「島 左近」の本名は、
「島 清興」(シマ キヨオキ)であるが、
この章では
通称の「島 左近」にて綴った事を、
最後に明記しておく。