【織田信長の新事実】 ~世間が知らなさ過ぎる、信長の事実~ | 歴史ブログ

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歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。


【織田信長の新事実】
~世間が知らなさ過ぎる、信長の事実~


「戦国武将の逸話には、
創作である軍記物の記述に引きずられ、
学術ではないソレが
定説となってしまう事が多い。」

織田信長にまつわる
学術上ではない世間一般の定説は、
間違いだらけ。

可能性が あり得る本説とは……





織田信長といえば、
16~18歳の頃に
奇行が目立った事から、
「大うつけ(大バカ者の意)」と
呼ばれていた。

この「うつけ」、
実は演技だったとされるが、
その理由もこれまでの定説とは
ズレている。

「うつけを演じたのは、
弟に注がれた母の愛情を取り戻したかったから
等と言われていますが、
現代人が考えつく程、そんな甘い時代ではない。」


【本当の理由は、“「暗殺防止」” です】


くしくも
信長が抹香を信秀の仏前に投げつける
奇行を見せた、
父・信秀の葬儀で読まれた
弔辞の一節です。

『孫呉兵術に慣るるのみに非ず、
   況(イワン)や良平の謀諮を
   挫(クジ)くをや』

「孫呉」は、
「孫子」、「呉子」なる兵法書を残した
「孫武」と「呉起」であり、

「良平」とは、
漢の劉邦に仕えた名軍師・「張良」と
「陳平」を指す。

つまり、
中国の故事を例えに用い、
信秀を誉め称えているのだ。



「中国には、唐の太宗や宣宗など、
有能な人物が後継者争いで
暗殺されるのを防ぐ為、
ワザと『うつけ』を装い、
後に実権を握った例がいくつもある。」

「当時の尾張は
織田一族同士で戦い合う状況で
いつ暗殺されてもおかしくない。」
「父・信秀は一番優れた息子の信長に
ワザと、うつけ を演じさせたのです。」



この視点で
これまでの信長の定説を捉え直すと、
新事実が見えてくる。



4万5000ともいわれる
大軍を率いた今川義元を、
僅か10分ノ1の兵力で破った
「桶狭間ノ戦い」。

信長が義元の本陣を奇襲し、
偶然と幸運が重なって勝てた
とするのが世間一般の説だが……


信長は、確実に勝つ為に、
綿密な作戦と計画を立てていた。


『「呉子」には
「千の力で、万の敵を撃つ最善の策は
狭い谷間で戦う事」
という兵法が書かれています。」
道幅が狭いと大軍でも横に広がれず、
攻撃の範囲が狭まる。』

『だから桶狭間に義元を誘き寄せた。』

『また、「先頭と後尾が分断された敵は
攻め易い」
「敵が進みやすく、
退却しにくい地形にいる時に、
誘い出せ」
とも書かれてある。』


『信長は、それに従い、
後陣が桶狭間にいるうちに
自分の砦を餌として
敢えて攻め落とさせ、
前陣を砦のある平地に引き出す事で
軍を2つに分断し、兵力を半減させた。』

更には、
『追い風の時に大声を出して、攻め込め』
という兵法も実行。

「敵は恐怖を感じ混乱するそうです。」

「桶狭間は伊勢湾の近くで、
しかも夏だから海風は強い。
海の温度が高まり海風が吹く
お昼から突撃を始めた。
決戦は
通常は朝イチで始まるものなので、
結果的に奇襲となった。
信長は地形や気候、時間をも巧みに
利用したのです。」

成功率を上げる為、
「作戦は、士卒に知らせるな ‼」
という孫子の教えどおり、
家臣全員にも、予め教えない徹底ぶり
だったという。


信長で連想しやすいのは、
比叡山の焼討などの処刑行為。

この処刑行為も、
信長の性格に起因するように思われているが、
全く違うと思われます。


「信長は戦に関しては
孫呉の兵法を用いたが、
政治には『韓非子』の論理を使ったと
思われます。」


「韓非は春秋戦国時代の
諸子百家の一人で、
孔子や孟子などの儒教的精神とは
対極の存在。」

「秦の始皇帝が心酔し、
彼を重用しました。
簡単に言うと、
帝王として勝ち残る方法が
書かれてあるのです。」

信長は
家臣の荒木村重が謀反を起こした際、
その一族郎党、妻や側室、幼子さえも
全員処刑した。

「『韓非子』によれば、
とにかく厳罰を与える事が大事。」

「他の家臣が恐れて同じ事(謀反)を
起こさない様にする事が
目的の『予防刑』という考えです。」

「例えば、比叡山に関しても、
浅井長政、朝倉義景に加担したら
焼討にすると、
比叡山側に事前に通告していた。」

「その約束は反故にされましたが、
ここで見逃せば予防策にならない。」

◾『絶対に処分しないといけません。』
『決して個人的感情や残虐な性格だから
なのではなく、
統治する為の術” なのです。』



こうした状況下、
信長は「本能寺ノ変」で
自刃する事に。

だが、本能寺では信長ではなく
別人が殺される予定だった。

「実は、信長は徳川家康を
本能寺で殺そうとしていた。」
「家康を呼び寄せて光秀に討たせ、
家康の領地・三河を制圧するはずでした」

事実、信長は、
「本能寺ノ変」当日、
重臣30人を従えた
家康を呼びつけている。」

「ここで重臣ごと一気に討てば、
指揮系統を失った三河の強力部隊も
手に入る。」

「それは同時に、光秀にとっても、
信長を討つ千載一遇のチャンスとなった。」






⬛【何故、光秀は謀反を起こしたのか】

「信長に恨みがあった」、
「天下を取りたかった」、
などの説があるが、
ソレには別の動機がある。

自分の一族が、信長に滅ぼされると思った
からでしょう。(かなり、主観的で浅はか)


「韓非子」に、
『狡(ズル)い兎が全て狩られれば、
猟犬が煮て食べられる。』
同じように、
『敵国が滅びれば、謀臣が殺される。』
という一節があります。

戦国武将にとって
一族が続く事は
天下を取る事と同じ比重で
重要でした。

当時は、主君の死後、
その一族は
有力な家臣に滅ぼされるのが常だった。

その為、
有力武将は遠国へ移封されるか
滅ぼされる。

信長はイエズス会の宣教師に、
中国の明を征服する予定だと
述べています。

この計画により、
信長は、自分の一族を滅ぼしかねない
有力武将を中国へ送り込む事ができる。


則ち、
『高齢の光秀に代り、
息子たちが中国へ行く事になる。

恐らく、もう帰って来れず、
光秀一族は中国で滅亡する事になる。

光秀は、そう悟り、
謀反を起こしたというのが
最も妥当です。』




天下泰平の為に邁進した織田信長。
それには織田の長期政権を構築する必要がある。

当時の武士には、
百年先までを明確にイメージでき、
ヴィジョン化できる信長の能力や、
その緻密で最先端の考えは、
他国の大名たちや、信長を知る者たちには、
才や能が無いが故に
理解できなかったのでしょう。









最後に…… φ(..)

どんな理由があれ、
流浪の浮浪者 同然の身を、
方面全軍の総大将や重臣にまで
取り立ててくれ、
食うにも困っていた身を
数国の城持ち大名にまでしてくれた
主君・信長を亡き者にした光秀は、
最大の反逆臣、謀反者、侫臣です。

本来であれば、
命を差し出しても償えぬはずの恩を
己の野望の為に
主君殺害という
絶対に犯してはならない暴挙にでた。

明智光秀は、
己の野望の為には
主君に近より殺害を企てる
逆賊非道の輩だと思えてなりません。