「木村重成、後藤基次、薄田兼相、討死」 ~大坂・冬ノ陣~ 5月6日の出来事 | 歴史ブログ

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~5月6日の出来事~

【木村重成、後藤基次、薄田兼相らが討死】
~大坂・夏ノ陣~


元和元年(1615) 5月6日、
河内・「若江ノ戦い」にて
大坂方の木村重成が
井伊直孝と戦い討死。
享年23歳。

また、「道明寺ノ戦い」にて、
大坂方の
後藤基次、薄田兼相らが討死、
真田信繁は殿軍を務めて
大坂城へ退去する。

基次・享年56歳、
兼相・享年不詳。

前年11月、徳川家康は、
大坂城の豊臣秀頼討伐を起こし、
「大坂 冬ノ陣」が始まりました。

冬ノ陣では、大坂方が奮戦、
一時、和議が結ばれますが程なく破れ、
この年の四月から
再び戦いが開始されました。

圧倒的な兵数で
諸方から大坂城へと迫る徳川方に対し、
この日、大坂方は、

若江では、
木村重成らが、

八尾では、
長宗我部盛親と増田盛次が、

道明寺では、
後藤基次、真田信繁、
薄田兼相(ススキダカネスケ)、
毛利勝永らが、
それぞれ徳川方と戦いました。

木村長門守重成は
一説に常陸介重茲の子と言われ、
非常に美男子だったと伝えられています。

重成は、前日に入浴し、髪を洗い、
香を焚きこめて出陣、
若江で藤堂高虎、井伊直孝 隊と
遭遇します。

初めは藤堂隊の一部を
撃破するなど奮戦しますが、
兵力差が大きく、
疲労が見えたところへ
井伊直孝 隊が殺到、
奮闘およばず
ついに討死しました。

後に、
重成の首実験をした家康は、
「香を焚き込めたのは、勇士の嗜みであり、
兜の緒の端を切り落としてあるのは、
討死を覚悟した証拠。
素晴らしい勇将である。」
と褒め讃えた。

重成の死を知った
大坂城内の婦女子は
皆、泣いたと伝えられます。


一方、
藤井寺方面には
先鋒として後藤基次、薄田兼相らが
向かいますが、
後隊の真田信繁の到着が
濃霧により遅れたのと
敵の進撃が予想外に早かった事が
重なり、
基次は単独で道明寺へと出ます。

ここで小松山を巡って
徳川方の水野勝成、伊達政宗隊と
激戦となり、
基次は多くの敵勢を討ち取るなど
力戦したが、
ついに伊達隊の銃撃を浴びて
討死しました。

この後、
薄田兼相も道明寺・河原で
水野勢と戦い、
激闘の末に河村重長に討たれます。

遅れた真田信は敗残兵を纏めて
伊達家の片倉重綱隊と戦い撃破しますが、
自軍の損害も多く、
夕刻になって
毛利勝永らと共に兵を引いています。