「舟島(巌流島)の闘い」 ~4月13日の出来事~  | 歴史ブログ

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歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。


~4月13日の出来事~

【舟島(巌流島)の決闘】

慶長十七年(1612) 4月13日、
宮本武蔵と佐々木小次郎が
舟島(巌流島)で決闘、
武蔵が勝利する。



二天一流の祖として知られる
宮本武蔵玄信は、
天正十二年(1584)、
播磨印南郡米田(堕)村(兵庫県高砂市)に
生まれたとされます。

但し、
生年を天正十年とするものもあり、
生誕地は
美作吉野郡讃甘村(岡山県美作市)とも
揖東郡宮本村(兵庫県太子町)とも
言われています。

武蔵自身の叙述によると、
十三歳の時に新当流の有馬喜兵衛と、
また十六歳で
但馬の秋山某と戦って勝ち、
以後、有名な剣豪との試合以外でも、
六十六度闘い
全てすべて勝ったという事です。

奇矯かつ傲慢な性格だったと伝えられ、
風呂嫌いで身だしなみに
欠けていた事から、
仕官先が見つからなかったと
いわれますが、
晩年には
肥後藩主・細川忠利の客分として
迎えられました。

著書に『五輪書』があり、
また画家としても名高い
多能な人物として知られています。



ぬぬ
一方、秘技「燕返し」を持つ
厳流の達人・佐々木小次郎は
実体不明の人物で、
一説に
越前・宇坂庄浄教寺村(福井市)に生まれ、
越後の小太刀の名人・富田勢源門下に
学んだ後に、
一派(厳流)を立てたとされますが、
よく分かっていません。


世に「巌流島の決闘」として知られる
武蔵と小次郎の試合は、
この日、関門海峡に浮かぶ
舟島(山口県下関市)にて行われました。


この試合は武蔵が故意に遅参、
小次郎を焦らせ怒らせる事により
精神的に優位に立つという作戦が成功、
武蔵が勝利を得ました。


武蔵は
舟の櫂を削って作った即席の木刀で
小次郎を一撃に打ち倒したとも、
また試合後に
小倉藩士が気絶していた小次郎を
斬殺したともいわれます。

試合に勝った武蔵は
暫く消息不明となりますが、
のちに肥後・細川家に客分として
身を寄せ、
正保二年(1645) 五月十九日に没して
弓削(ゆげ)の里(熊本市龍田弓削)に
葬られました。