「武田信玄 死去」 ~4月12日の出来事~ “甲斐の虎、その死を三年伏せよと遺言” | 歴史ブログ

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~4月12日の出来事~
“甲斐の虎、その死を三年伏せよと、遺言”

⬛【武田信玄  死去】

天正元年(1573) 4月12日、
上洛を目指した武田信玄が、
労咳のため
帰国途中に伊那駒場で病没。
享年53。


越後の上杉謙信と共に、
戦国大名の代表的な存在である
武田信玄は、

大永元年(1521) 十一月三日、
信虎の嫡男として
甲府・積翠寺城(山梨県甲府市)に
生まれました。

信玄は
宿敵・上杉謙信と五度に渡り
川中島で戦いますが、
中でも永禄四年(1561)九月の
「第四次 川中島ノ戦い」は、
戦国時代の合戦として
広く知られています。

信玄は、
天文十年(1541) 六月、
父・信虎を追い出して
第十九代・当主の座につくと、
まずは信濃攻略に乗り出しました。

信濃には
小笠原長時、村上義清という
有力国人が存在し、
義清には二度に渡り苦杯を喫しましたが、
地力に勝る信玄は
真田幸隆の活躍もあり
着実に領土を拡大していきました。

川中島で上杉謙信と
痛み分けの大激戦を演じた信玄は、
次いで上野に矛先を向け、
やがて上野・西部を押さえます。

更に尾張から彗星の如く出現した
織田信長により当主が討ち取られ、
弱体化していた駿河の今川氏を滅ぼし、
念願の「海」のある国・駿河を
手中にしました。

中央では
足利義昭が信長に擁立され
室町幕府 十五代・征夷大将軍と
なっていましたが、
信長との折り合いが悪く、
やがて反・信長陣営の筆頭となります。

信玄は
義昭の要請に応えて西進を開始、
信長の盟友・徳川家康と戦いを交えました。

三方ヶ原ノ戦いで
家康を撃破した信玄は三河へ進み、
この年の二月には
野田城(愛知県新城市)を攻略して
長篠城(新城市)へと入ります。

しかし、ここで、
武田軍の動きが止まりました。

この頃、信玄は病に冒されており、
それが悪化した為です。

主治医の板坂法印は
信玄を鳳来寺温泉に運び
療養の手を尽くしますが、
一向に回復の兆しは見えません。

この為、三月中旬に、
武田軍は一旦、本国・甲斐に戻る事に
決しました。

上洛を断念した信玄は
甲斐に戻る途中に容態が急変、
この日、信濃・駒場で病死しました。
享年五十三。


余談ですが、
食事中に信玄死すの報に接した
上杉謙信は、
愕然として箸を落とし、
落涙したと伝えられています。






⬛【信玄の死と、遺言】

信玄は野田城を落とした直後から
度々、喀血を呈する
(一説では、三方ヶ原ノ戦いの
首実検の時に喀血が再発したとも)
など持病が悪化し、
武田軍の進撃は突如として停止する。

この為、
信玄は長篠城において療養していたが、
近習、一門衆の合議にて
4月初旬には甲斐に撤退する事となる。

4月12日、
全軍を甲斐に引き返す
三河街道上で死去する。
享年53。

臨終の地点は、
小山田信茂 宛
御宿堅物 書状写によれば、
三州街道上の信濃・駒場
(長野県下伊那郡阿智村)であると
されているが、
浪合や根羽とする説もある。


戒名は、
『法性院機山信玄』。
菩提寺は山梨県 甲州市の恵林寺。


辞世の句は、
『大ていは 地に任せて 肌骨好し
   紅粉を塗らず 自ら風流』。


『甲陽軍鑑』によれば、
信玄は遺言で
「自身の死を3年の間は秘匿し、
 遺骸を諏訪湖に沈める事」や、

勝頼に対しては、
「信勝継承までの後見として務め、
 越後の上杉謙信を頼る事」を
言い残し、

重臣の山県昌景や馬場信春、
内藤昌秀らに後事を託し、

山県に対しては
「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)
 旗を立てよ」と
言い残したという。

信玄の遺言については、
遺体を諏訪湖に沈める事など
事実で無いことが含まれているが
(『甲陽軍鑑』によれば、
重臣の協議により実行されなかったという)、
信玄死去の三年秘匿や、
勝頼が嫡男・信勝の後見となっている
可能性も指摘され、
文書上から確認される事跡もある。

信玄の死後に家督を相続した勝頼は、
遺言を守り、
信玄の葬儀を行わず死を秘匿している。

駒場の長岳寺や甲府・岩窪の魔縁塚を
信玄の火葬地とする伝承があり、
甲府の円光院では
安永8年(1779年)に
甲府代官により発掘が行われ
信玄の戒名と年月の銘文がある棺が
発見されたという記録がある。

この事から
死の直後に火葬して
遺骸を保管していたという事も
考えられている。

天正3年(1575年) 3月6日には
山県昌景が使者となり、
高野山・成慶院に日牌が建立される。
(「武田家御日牌帳」)

同年5月21日に
武田勝頼は長篠ノ戦いに於て
織田・徳川連合軍に大敗しているが、

『甲陽軍鑑』品51によれば、
この直前にあたる同年4月12日には、

恵林寺に於て、
勝頼による信玄三周忌の仏事が
行われている。

この時、
恵林寺住職の快川紹喜が
大導師を務め葬儀が行われたという。
(「天正玄公仏事法語」)

現代研究では、これを、
「3年喪明けの葬儀で、
天正4年(1576年)4月16日に
本葬を行った」
としている。

天正4年(1576年) 4月16日には
恵林寺に於て勝頼により
信玄の葬儀が行われている。

江戸時代には
寛文12年(1672年)に
恵林寺に於て百回忌の法要が
行われている。

寛文12年(1672年)4月12日には
恵林寺に於て甲府藩主・柳沢吉保による
百三十三回忌の法要が行われている。

柳沢吉保は
将軍・徳川綱吉の側用人で、
宝永元年(1704年)に甲府藩主となった。

吉保は信玄を崇拝し、
柳沢氏系図に於て
武田氏に連なる一族である事を強調し、
百三十三回 忌法要では
伝・信玄佩刀の太刀、
銘来・国長を奉納し、
自らが信玄の後継者である事を
強調している。