「難攻不落の上田城」 ~徳川家康も恐怖した、真田昌幸の知謀が集結~ | 歴史ブログ

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【難攻不落の上田城】
~家康も恐怖した真田昌幸の知謀が結集~


上田城が歴史の表舞台に
初めて登場するのは、
天正13(1585)年、
上野・沼田(群馬県沼田市)の領有をめぐり
真田昌幸が徳川家康と衝突した
第1次 上田合戦の時だ。


上田城に籠城する真田軍は
昌幸 以下・兵2000、


一方、
徳川軍は兵7000で
上田城を包囲した。

3倍の兵力を擁する徳川軍の勝利は
火を見るより明らかであった。

しかし、徳川軍は、
1300人にも及ぶ死傷者を出し
大敗北を喫したのである。

対する真田軍の死傷者は
40人程度だったと
真田方の記録に残されている。


この合戦で
徳川軍を破った昌幸の知謀は、
近隣に留まらず全国へと鳴り響いた。


昌幸が
天正11(1583)年に築城した上田城は、
南側を
千曲川支流の尼ケ淵の崖に守られ、
北側と西側にかけては
矢出沢川を引き込み天然の外濠とした。

比較的攻めやすいと見える東側にも
蛭沢川や湿地帯があり、
天然の要害であった。




第1次 上田合戦から15年後の
慶長5(1600)年9月、
再び上田城に危機が訪れる。

関ケ原の合戦に向かう
徳川秀忠率いる
徳川軍3万8000との衝突である。
(第2次 上田合戦)

秀忠は、
豊臣方(西軍)に属して
兵3000で上田城に籠城する
昌幸、信繁 父子に降伏を勧告するが、
父子は拒否した。



逆に、
「十分に準備ができたので、一合戦、仕ろう」と
徳川軍に宣戦布告をする。

秀忠の怒りは頂点に達し、
徳川軍は直ちに総攻撃したが、
上田城の堅い防備と真田軍の強さは
秀忠の予想を遥かに上回るものであった。

かつて、第1次 上田合戦で、
昌幸に散々煮え湯を飲まされた
徳川軍には、
悪夢の再来となった。


その惨状は目を覆うもので、
徳川家公式文書
『烈祖成蹟(レッソセイセキ)』にさえ
「我が軍 大いに破れ、死傷 算なし」
と記されているほどだ。

徳川軍は上田城を落せず
いたずらに日を過ごし
6日間も足止めをくらい、
秀忠は関ケ原合戦に間に合わず、
家康から烈火の叱責を受ける。

関ケ原後、上田城は、
家康により徹底的に破壊され、
昌幸、信繁 父子は
紀伊国(和歌山県と三重県南部一帯)
九度山に配流となる。




「真武内伝(シンブナイデン)」をはじめ
江戸期に成立した戦記物によれば、
家康は大坂冬ノ陣に於て
真田が大坂城に入城した知らせを受けると、
思わず立ち上がり、
体を震わせながら「父か子か」と尋ね、
子の信繁と聞いて、
ホッと胸をなで撫で下ろしたという。

家康にとって、
2度も徳川軍を退けた上田城の攻防は、
トラウマだった事を物語っている。


天下人・家康をも
恐怖に晒した上田城は、
戦国大名として生き抜くための
昌幸の知謀が結集された城だった
のである。