『越後の猛将・「柿崎景家」』 ~上杉謙信を支えた男~ | 歴史ブログ

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⬛【越後の「柿崎景家」】
~謙信を支えた男~




永禄四年(1561)九月十一日、
信濃・川中島に於て
上杉謙信と武田信玄の両雄が激突した。

戦国時代には全国各地で
無数の戦いが繰り広げられたが、
その中でも“関ヶ原ノ戦”いや
“桶狭間ノ戦い”と共に
有名な戦いの一つとして知られる
「第四次 川中島ノ戦い」がある。

戦いの前半は上杉方 優勢、
後半は武田方 優勢で
結局は痛み分けに終わった
この戦いに於て、
上杉軍の先鋒大将を務め
真っ先に武田軍に勇猛果敢に突撃、
存分に敵を撹乱した猛将こそ
「柿崎 和泉守 景家」、
その人である。

景家は
上杉謙信の麾下・筆頭の猛将と
言っても過言ではない。

「越後の二天」、「上杉四天王」なる
異名を持ち、
謙信のや関東進出や加賀侵攻など
大小を問わず数々の戦いに
常に戦功を挙げている侍大将だが、

上杉家随一の猛将という割には、
あまりその人物像がはっきりとは
見えてこない。

(「越後の二天」=柿崎景家と
  甘糟景持または直江景綱)

(「上杉四天王」=柿崎景家、甘糟景持、
  直江景綱、宇佐美定満とされる)



「川中島合戦の際、
景家は乱戦中に
信玄の弟・信繁を討ち取り、
更に山本勘助の首も
景家の郎党があげたなどとも
伝えられている。」

もしこの合戦が
謙信の勝ちに終わっていれば、
文句無く景家が
その戦功第一である事は間違いない。

上杉家中で、
それほどの位置にいた景家だが、
不思議な事に誕生年は曖昧で
はっきりしていないのである。

そんな柿崎景家とは、
どのような人物だったのだろうか…



『向かう所鉄をも通すべしと
   存ずるほどの者に候』
(「北越太平記」)

『智勇の陣将、勇驍の働、
   一世に七度あり』
(「勇将録」)

『毎戦に強きを破り、
   堅きを摧(クダ)くの功、
   倫少なき猛将なり』
(「北越難記」)

『柿崎和泉守景家
   大剛の将にて武功番数一番』
(「謙信記」)

後年に編纂された
軍記物に見える記述とはいえ、
後世の人々は景家の事を
上杉軍・筆頭の侍大将として
戦場を勇ましく駆け回る
大力無双の豪傑、
といったイメージで捉えているのが
分かる。

しかし景家は、
天文十一年(1542)には
守護・上杉定実の
養子を迎える使者として
伊達家に赴き、
また後には、
謙信の奉行を務めるなど
外交、内政両面に於ても
上杉家を支えた人物なのである。

景家は、
越後(新潟)・頸城郡 柿崎(上越市)を
本拠とする
国人・柿崎但馬守利家の子として
生まれた。

誕生年の詳細は定かではないが、
一説に永正十年(1513)の生まれという。

ちなみに景家は、
天文三年(1534)、柿崎の地に
楞巌寺(リョウゴンジ)を建立しており
(後に春日山から
謙信の師として知られる
天室光育を招いている)、

永正十年の生まれならば
一応理解できる。

つまり、
謙信から見て二十歳前後
年上であろうか。

通称は弥二郎、
後に和泉守を称した。

柿崎氏は鎌倉時代から
越後に根を下ろしていた土豪で、
同・時代末には
「越後 十六家」なる土豪の存在があり、
小競り合いを繰り返していたという。

その十六家とは、
柿崎、直江、新発田、本庄、加治、
三条、柏崎、五十嵐、樋口、風間、
篠崎、宮川、大井田、妻我(ツマリ)、
蔵王堂、楠の各氏で、
更に、
小国、中条、山本寺、山村、金津という
各氏がいた。

米沢・柿崎氏 系図によると柿崎氏は、
越後・蒲原郡 白河庄 安田郷
(新潟県 阿賀野市)を領して
柿崎宿の地頭を兼任していた
大見氏の流れで、
但馬守 俊家(景家の曾祖父)の代で
柿崎氏を称したとする。

俊家の後は、
大和守重家、但馬守利家と続き、
利家の嫡子が景家である。

家族については
家系図により少々異なるが、
米沢・柿崎氏 系図では
父・但馬守 利家に
出雲守 某なる兄が見え、
景家には
片桐六郎左衛門満義の室となった
姉が一人いる。
(信州・柿崎氏系図では、
泰景、則景なる二人の兄弟がいたとする)

また子には、
源三祐家、左衛門大輔晴家、
清七郎 某、能登守憲家の名が見える。

景家は越後守護・上杉氏の一族、
上条氏のちに転じて長尾為景に仕え、
為景の没後は
晴景を経て景虎(上杉謙信)に仕えた。

景家の初陣は
天文五年四月に行われた、
三分一原(サンブイチハラ=上越市)ノ戦いの
頃という。

越後は元々、
越後守護・上杉氏の領国だったが、
当時、急速に台頭してきた
守護代・長尾為景(春日山城主)が
永正四年(1507)に
守護職・上杉房能を天水越に討つなど
実質的に政権を奪った状態と
なっていた為、

上条城主(柏崎市)・上条(上杉)定憲は
為景を打倒すべく挙兵した。
(城名=ジョウジョウと読む)

対する為景も上条城 攻めに出陣、
四月十日に泥沼地帯であった
三分一原(上越市)にて
両軍が激突した。

景家は初め
宇佐美四郎右衛門らと共に
上条 方であったが、
戦いが始まると
為景 方に寝返り
定憲の本陣を襲撃した。

これにより定憲は討死、
上条軍の将兵数千人が討ち取られ、
自軍も多大な死傷者を出しながらも
為景が勝利したという。

景家がナゼ寝返ったかは謎だが、
米沢家譜は以下のように記す。


『此時、景家は
一門の逆謀にくみせず、為景に通じ、
多勢をもって定憲 後陣を攻め、
定憲一戦利あらず。』
『定憲及び柿崎三郎左エ門一党、
宇佐美、風間等討取。』
『国中平均、この忠節の賞として
柿崎一門の所領 及び
五十公野(イジミノ)城を賜わる。
また雷城(イカズチ ジョウ)を守り
ここにおいて五十公野弥次郎と称す。』

地理的に柿崎の地は、
上条城と春日山城の中間にあり、
戦乱の絶えない越後に於て、
柿崎氏にとって定憲と為景の
どちらに付くかは
まさに死活問題であったろう。

「一門の逆謀にくみせず」と
見える事から、
柿崎氏一族にも内紛があった公算が
大きい。

経緯がどうであれ、
下克上の世の中で
景家は為景を選び、
その後、柿崎氏は
為景の子・上杉謙信の重臣となり
活躍しており、
この時点に於ける
景家の「寝返り」は
正解だったわけである。

そして景家は、この戦い以降、
和泉守 景家と称したという。

為景は定憲を討ち得たが、
この後も続く内乱に悩まされ
越後統一は果たせず、
八月には家督を晴景に譲り
表向きには隠居する事になる。





越後で急速に台頭した長尾為景は、
家督を晴景に譲り
表向きには隠居する事になるが、
実権は引続き握っていた。

晴景は一説に病弱で暗愚、
また素行も良くなかったと
伝えられており、
後に長尾景虎(上杉謙信)が
自筆の書状に
『兄・晴景、病弱につき
   越後を治めるようになった』
と記している事から、
暗愚、素行不良 云々は別として
病弱であった事は事実の様である。

戦国の世に於て、
主君が病弱であれば
家臣達が相当一致団結していないと
家の存続は難しい。

長尾家中も例に漏れず、
晴景に重用されていた
黒田秀忠、大熊朝秀が
権力に物を言わせて
専横的な態度を見せ始めた。

これは当時、
栃尾城主となっていた景虎が
春日山城に入り、
兄・晴景とも協力して
一旦は鎮圧されるが、
黒田は景虎が栃尾に戻ると
再び反乱を起こした(黒田ノ乱)。

結局、
黒田は景虎に攻め滅ぼされ
反乱は収まるが、
今度は一部の家臣の間に
弟の景虎を擁立しようとする動きが
みられるようになった。

この頃の景家の動向は
不明であるが、
一説に景家の妻は黒田秀忠の妹
あるいは娘とも言われており、
景家は秀忠に味方するよう
誘われたが、
妻を離縁した後に
春日山城に馳せ参じたという。

妻の出自に関して真偽は不明だが、
後に景家が
景虎の下で活躍しているのは事実で、
当時、黒田方には加わって
いなかったようである。

やがて長尾晴景は
上杉定実の仲介により、
景虎に家督を譲り隠居したと
されるが、
家中の要請に屈して
隠居させられたという方が
妥当であろう。

これが天文十七年(1548)の
大晦日の事、
景虎・十九歳、景家三十六歳(推定)
であった。

ちなみに
晴景は隠居から五年後の
天文二十二年(1553) 二月に
四十二歳の若さで没している。


景家はとかく戦闘一辺倒の
猛将として捉えられがちだが、

実際には軍事面のみならず、
内政や外交にも
上杉家の宿老として活躍した。

謙信が外征中の春日山城の守備や、
斎藤朝信と共に奉行として
領内の政務を担うなど、
如何に謙信から
信頼を受けていたかが分かる。

特に小田原・北条氏との間に於ける
永禄十二年(1569)六月の
「越相同盟 締結」の際には、
北条方が人質として
氏康の子・氏秀(後の上杉景虎)を
出したのに対し、
上杉方では、景家の子・晴家を
小田原城へ送っている。

それも北条氏では
初め景家本人を要求したというから、
対外的にも景家の存在の大きさが
はっきり分かる。

しかし、
この北条氏との関係が
やがて柿崎氏 受難の切っ掛けとなり、
景家の没年は伝えられてはいるが
その終焉は定かではないという
気の毒な結末を迎える事になるのである。

景家は、
この時点では何の責任もない。

要は、
北条氏政が武田信玄の策に乗せられた形で
越相同盟を一方的に破棄した事が
最大の理由であり、

その後、
謙信と北条氏が戦うにあたり、
晴家を人質として
小田原に送っている景家との間に
微妙な感情が生まれた事は
否定できない。

景家は、天正二年(1574) 以降、
諸記録から、その存在が消えている。

この時期に
隠居、あるいは死去したものとみられるが
定かではない。

菩提寺の楞巌寺
(リョウゴンジ・新潟県上越市)にある
過去帳には、
十一月二十二日を命日とし、
法名は
「大乗院殿 籌山曇忠 大居士」
と見える。

家督は二男の晴家が継いだ。

ちなみに嫡男の源三祐家は、
前年の越中攻めで被弾し
深手を負ったと伝えられており、
程なく没したのかもしれない。

楞巌寺は景家が
春日山より天室光育和尚を迎えて
建立した寺である。

天室光育は
上杉謙信の師父として知られる
高僧(林泉寺・六代住職)で、
永禄六年(1563) 六月二十三日に
同寺に於て寂滅(死去)している。

また、景家の終焉を、
天正2年11月22日(1574年12月5日)
とする説がある。

これは越中・不動宿に於て
讒言により
謙信に誅殺されたというもので、
その理由は、以下の通りである。

『天正 三年(1575)、
上杉家中・三百騎を預かる景家は、
差し当り不必要な馬の処分をと
上方へ馬を売りに出した。

上杉家と上方とは、
青苧(アオソ=麻の原料)などの流通で
交流がある。

これを聞きつけた織田信長が
その馬を高価な値で買い取り、
礼書と時服を
わざわざ景家のもとへ送り届けた。

この時、景家が、
謙信へ事の報告をし
指示を仰いでさえいれば
良かったのだが、
景家は報告せず、
結局は謙信に織田方に内通と
判断されてしまったのである。

死に臨んで景家は、
「この様な謀事に、易々乗せられる様では
 先は望めない」
と言って果てたという。

謙信が同・六年三月に
卒中で春日山城に没したとき、
巷では、
「夜な夜な無実を訴える景家の亡霊に
 苦しめられて死んだ」
と、真しやかに囁かれという。

真偽はともかく、
周りの人々が
景家に同情的な感情を持っていた
証拠といえよう。

柿崎 和泉守 景家、
没年:天正2年11月22日
          (1574年12月5日)

上杉家中で、
これほど重きを為し活躍した人物の
終焉としては、
真に不可解で残念というしかない。






⬛【柿崎景家の人物、逸話】

◾『上杉将士書上』によれば、
謙信は景家を
「和泉守(景家)に分別あらば、
 越後七郡に、合ふ者はあるまじき」
と評したとされる。



◾勇将揃いの上杉軍でも
屈指の戦上手であり、
上杉軍の戦いでは、常に先鋒を務め、
柿崎景家の名を聞いただけで
敵は逃げ出したともされている。

但し、景家の武勲に関しての資料は
一切発見されていない。



◾謙信が若い頃、
敵将の娘である伊勢姫と
恋仲になったと聞いた景家は、
抗議して関係を絶たせ、
伊勢姫はその後、出家し自決した。

これが切っ掛けとなり、
謙信は生涯 妻を娶る事はなかった
という説話がある。



◾俗説に於て、
死罪の原因となったとされる
信長への内通疑惑の顛末は、
景家が不要な馬を
交流の有った上方の馬市に
売りに出したところ、
「越後の馬は、上質である」との理由で
信長が高値でその馬を買い取り、
贈品と共に礼状を送った。

景家はこうした経緯を
謙信に報告していなかった為に、
景家が直接、信長に馬を売ったと思われ、
謙信は景家が内通していると疑い
殺したというものである。



◾柿崎氏は代々、
越後の名山・米山薬師を信仰してきた
経緯がある。

景家 在世当時も
信仰心は篤かったとされる。



◾謙信 時代の初期には
筆頭格であったとされる。

また、
家格が高く、古式を理解し、
機知や教養に富むものでなければ務まらない
重任(外交使節の接待・供応など)
を拝していた。