「第一次上田ノ戦い」 ~上田城に見る、真田昌幸の戦略~ | 歴史ブログ

歴史ブログ

古の先人たちに敬意を表し、歴史ブログとして記しております。

過去の今日はどんな出来事があったのかを記した
「今日の出来事」。

歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。


“大河ドラマ「真田丸」、
理解でき面白く見る為に、
前半のクライマックスを前に
史実を予備知識として知ろう”





【第一次 上田城ノ戦い】
~上田城の戦いに見る、真田昌幸の戦略~


真田昌幸が
3倍以上の兵力で攻め寄せた
徳川軍を撃退した「第一次 上田合戦」。

第一次 上田城の戦いとも呼ばれる
この戦いは、
真田昌幸の武名と軍略を
世に知らしめる合戦となりました。

上田合戦で
真田軍が大勝した要因には、
上田城の堅固さと、
少人数で大軍を翻弄した
真田昌幸の作戦の立て方にありました。

第一次 上田合戦で
兵力的に圧倒的不利だった真田軍が
徳川の大軍を撃退した理由について
考えてみたいと思います。




⬛【第一次 上田合戦までの流れ】


天正10年、
織田信長が甲州の武田勝頼を
攻め滅ぼすと、
真田昌幸は織田信長の麾下に入りました。

しかし、
暫くして「本能寺ノ変」が起こり
織田信長が亡くなった為、
信濃は
北条氏直、徳川家康、上杉景勝という
3つの巨大勢力に狙われる事になります。

そんな中、
次に真田昌幸が主として選んだのが
徳川家康で、
真田家は徳川家の下で
戦国の世を生き延びていく事を
選択します。

しかし、
徳川家康と北条氏直の間に
和睦が成立すると、
家康は真田昌幸の所領である沼田と、
北条氏の佐久を交換するという
約束を結びます。

徳川家康は真田昌幸に
領地を北条氏に差し出すように
命じますが、
昌幸はこれを断固拒否。

そもそも沼田の領地は
昌幸自身が切り取ったものであり、
徳川家康から拝領した領地では
ありません。

この命令を不服とした昌幸は、
徳川家康と手を切り、
上杉景勝と結びます。

この行動に激怒した家康が
真田氏討伐の為に軍勢を差し向けました。

これが
第一次上田合戦の幕開けとなります。




⬛【上田城ノ戦い】


鳥居元忠、大久保忠世などを中心とした徳川軍は、
七千の兵力で上田城に攻め寄せます。

これに対し真田昌幸は、
領民を全員、上田城内に籠城させ、
領民と共に徳川軍に挑みます。

普段、領民の生活が苦しいと聞けば
年貢を半減するなどの
器の大きさを見せていた昌幸は、
領民からも信頼されていたようで、
籠城した民衆も
真田家の武士と共に戦ったと
されています。

そして、
この時に昌幸が取った作戦は、
とにかく徳川軍を引き付けて戦う事。

兵力が圧倒的に少ない以上、
戦線を広げてしまえば
大軍に勝ち目はありません。

そのため昌幸は、
囮の兵に、わざと敗戦を演じさせ、
徳川の大群を上田城の二ノ丸まで
攻め込ませます。

そして狭いスペースに踏み込んで
身動きが取れなくなった徳川の大軍に、
一斉に鉄砲を撃ちかけ、
温存していた兵も出陣させ、
徳川軍を一気呵成に殲滅します。

大混乱に陥った徳川の大軍は撤退。

しかし、攻め込む際は
難なく攻め込めた上田の城下町ですが、
逃げようと町に入り込むと、
いたるところに柵が設けてあり、
城下町は迷路の様になっていました。

そこへ真田軍が火を放ち、
城下町は炎に包まれます。

更に上田城の近くにある
砥石城を守っていた
長男の真田信之も徳川勢に攻めかかり、
多くの徳川軍を打ち取りました。

この第一次 上田合戦、
徳川軍の犠牲者は1300人、
真田軍の犠牲者は40人だったと
されています。




⬛【徳川家の敗北】


この第一次 上田合戦の時の様子を
書き記した書物があります。

徳川家康の家臣で、
上田合戦に出陣していた
大久保彦左衛門は
『三河物語』に敗走時の様子を、

“「我が軍は腰が抜けて
打って出ようという者がおらず、
役に立たなかった。」”

と記しています。

この後、徳川家康は、
井伊直政らの援軍を送りますが、
越後から上杉景勝の援軍が到着するなど
戦況が不利になってきた為、
撤退の命令を出します。

これにより、
第一次 上田合戦での真田軍の勝利が
確定し、
僅か二千の兵力で
七千の徳川軍を撃退した
真田昌幸の武名は世に知られる事と
なります。




⬛【難攻不落の上田城】


第一次 上田城ノ戦い、
第二次 上田城ノ戦いと、
2度に渡り徳川勢を退けた城として
有名になったのが上田城です。

しかも、
第一次 上田合戦の頃は
まだ完成していなかったとも
されています。

では何故、未完成の城で
徳川の大群を撃退する事ができたのか…?

それは未完成だったとは言え、
真田昌幸が知略を絞って築城した、
攻めにくく、守りやすい城だから
と言うより他にありません。

上田城は、「天守閣もない城」と
侮られていた様ですが、
実際は千曲川の尼ヶ淵という
断崖に建てられていて
高い防御力を誇っている城でした。

地形的に
徳川軍が攻めてくるとすれば
東側から。

そう考えた昌幸は、
東側の守りに専念し、
城下町に柵を設けるなどして
戦に備えました。

“数で劣る場合は兵力を分散せずに
一点に集中して戦う”

この戦略で
真田軍は徳川軍に大勝しました。

ちなみに上田城は
真田昌幸が徳川家康の麾下だった頃に、
家康の援助を受けながら
建築を始めた城。

徳川家康からしてみると、
自分の援助で建てられた城で
手痛い惨敗を喫したとなると、
その悔しさや苛立ちは
計り知れないものがあったと
推測されます。






⬛【次回予告】

次回は、
真田昌幸も絡めて、
難攻不落の上田城についてです。