「御館ノ乱」 “上杉謙信の跡目争い勃発” ~3月24日の出来事~ | 歴史ブログ

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歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。


~3月24日の出来事~

【御館ノ乱】
“上杉謙信の跡目争い勃発”


天正七年(1579) 3月24日、
上杉家の家督争いから
御館ノ乱が起こり、
景勝が鮫尾城を落とし、
上杉景虎は自刃。



永禄十二年(1569) 閏五月三日、
上杉謙信と北条氏康の間で
「越相同盟」が五ヶ月余に及ぶ
交渉の末に成立、

翌・元亀元年 四月二十五日、
北条家より氏康の子・三郎が
謙信の養子として
春日山城(新潟県上越市)に
やってきました。

ちなみに上杉家からは
柿崎晴家が小田原へ赴いています。

三郎は謙信の前名を授けられて
上杉景虎と改め、
長尾政景の娘を妻に迎えました。

つまり、
上杉景勝(当時は喜平次顕景)と
兄弟になったわけです。

謙信は将来的には
景勝を本家「長尾上杉家」の主とし、

景虎には「関東管領家」の惣領として
関東方面を治めさせる腹づもり
だったのかもしれませんが、

それを公表する前に
謙信が急死した為、
景勝と景虎は戦うことになります。

天正六年(1578) 三月九日、
謙信は春日山城内の厠で突然倒れ、
意識の回復を見ぬまま
十三日に没しました。

遺言などが一切無かった為、
家中が景勝方、景虎方の二派に分かれ、
跡目争いが起こりました。

景勝の行動は素早く、
十五日には「謙信公の遺言」と称し
春日山城の本丸、金蔵、兵器蔵を占拠し、
二十四日には
自身が謙信の後継者である事を
宣言します。

一方の景虎は、
妻子を連れて春日山城を脱出、
天文二十一年 以来
謙信を頼って越後へ来ていた
前の関東管領・山内上杉憲政の居館、
御館(同)に立て籠もったことから、
この戦いを「御館ノ乱」と呼んでいます。

景虎の兄・北条氏政は
武田勝頼に景虎救援を依頼、
勝頼は受諾し
五月二十九日には兵を
国境付近に進めますが、
景勝は
一部領土の割譲、黄金一万両、
勝頼の妹を娶る事などの
条件をもちかけて和睦に成功、
勝頼に兵を退かせます。

北条方では
九月初めに氏照、氏邦が出陣、
越後に侵入して
坂戸城(南魚沼市)などを攻撃しますが、

翌七年二月一日、
景勝は御館へ総攻撃をかけ、
ついに三月十七日に御館は落ちました。

景虎は落城寸前に
鮫ヶ尾城(新井市)へと脱出しますが、
頼ったはずの城将・堀江宗親が
景勝方に寝返り、
進退窮まった景虎は
この日、自刃しました。
まだ、二十六歳という若さでした。

この後、栃尾城(栃尾市)の本庄秀綱、
三条城(三条市)の神余親綱、
北条城(柏崎市)の北条輔広らが
抵抗を続けますが
順次各個撃破され、
天正九年 二月に
越後を二分した動乱は終息しています。