「家康の野望に智謀で挑んだ真田信繁が、戦いを求めた理由」 | 歴史ブログ

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【家康の野望に智謀で挑んだ
                          真田信繁が戦いを求めた理由】


「真田信繁(幸村)は、
死に場所を求めて大坂ノ陣に臨んだ…」。

時にそう語られる事があるが、
果たして事実か…?

温和で誰からも愛された
真田の次男坊は、
武田信玄を敬慕する父・昌幸の
領民を守る姿勢と、
大敵相手に智謀で挑む姿から、
「真田の戦い方」を学ぶ。

そして、大戦を望む
家康の言いがかりに窮した豊臣家が
助けを求めてきた時、
信繁は迷わず起ち上がるのだった。



⬛【真田昌幸が敬慕した
                               信玄と典厩信繁】

真田といえば真田信繁、
真田十勇士を連想される方も
少なくない事でしょう。

ところが人口に膾炙する幸村という名は、
戦国期の史料で確認できず、
代わりに真田昌幸の次男の名は
「信繁」と記載されています。

最近は歴史研究の場に留まらず、
真田信繁の名が
一般に浸透し始めており、
2016年の大河ドラマ「真田丸」でも、
主人公の名は信繁にしているそうです。

信繁が、
ナゼ幸村と呼ばれる様になったのか
については、またの機会に譲りますが、
信繁という名は、
真田氏と武田氏の深い結びつきを
象徴するものと考えられます。

信州・小県(上田市周辺)の真田氏が
甲斐の武田信玄に臣従するのは、
信繁の祖父・幸隆(幸綱)の時のこと。

実は幸隆は、
信玄の父・信虎らにより
小県を奪われており、
流浪後、
信虎を追放した息子・信玄に仕えて、
旧領回復の悲願を実現しました。

武田の躍進を智謀で助けた幸隆は
信玄から重用され、
息子たちも武田に仕えます。

その中の一人が
信繁の父となる昌幸で、
幸隆の三男でした。

信玄は若い昌幸を人質ではなく、
近習として用い、
将来の武田を支える「幹部候補生」として
自分の側近くに仕えさせたのです。

名将と呼ばれる信玄の政治手腕や
軍事における采配を
間近で目にしながら、
昌幸は多くの事を学びました。

信玄の領民の生活を守る姿勢、
一種の「王道政治」の理念に
深く感銘を覚えた事でしょう。

喩えば、
武田の隣国・信濃への進攻について、
信濃の豪族たちにすれば、
当時の信濃は守護職の小笠原氏が
力を失い、
豪族たちが勢力争いに明け暮れていて、
信濃の領民たちにすれば
落ち着いた生活は望めませんでした。

むしろ武田の支配下に入り、
統治が安定した方が
領民からすれば助かるのです。

実際に信玄は、
信濃の大部分を勢力下に置き、
更に信濃守護職にも任じられますが、
その背景には
領民の支持がありました。

つまり、
円滑な統治の基本は、
民の生活を常に守る姿勢にあり、
統治者とは
「護民官」でなければならないという理を、
昌幸は信玄から学ぶのです。


また、そんな信玄を助け、
新たな支配地の人心掌握に尽力したのが、
武田の副将にして
信玄の弟・武田典厩信繁でした。

典厩は99カ条の家訓を残していますが、
そこには
慈悲の心の大切さも説かれています。

つまり信玄と同じ考え方に立って、
「護民官」としての兄を支えていた事が
窺えるのです。

後世、「真(マコト)の武将さ」と
称えられた典厩は、
第4次 川中島合戦で
自ら上杉軍への盾となり、
信玄を守って討死。

その合戦が初陣であったという
昌幸は、
命を捨てて兄の為に働いた
典厩の姿に、
武将としての理想像を見出し、
その生き方に あやかる意味で、
己の次男に信繁と名付けたのでは
ないでしょうか。

ちなみに真田信繁の誕生は
典厩の死から6年後の、
永禄10年(1567)の事でした。
(異説あり)

そして、
「統治者は護民官であれ」という
信玄の姿勢は、
その後の昌幸や信繁らの生き方にも
大きな影響を与える事になります。



⬛【真田信繁の目を開かせた人質生活】

人質の身から、信玄に見込まれて、
重臣に引き上げられた昌幸は、
信玄を主君として敬愛し、
戦国最強を謳われた武田家を
支える事に誇りを抱きました。

更に息子の信繁の代になると、
武田家に仕えて3代目となり、
もはや新参者というコンプレックスはなく、
代々の武田家臣の一人という意識で
あったでしょう。

しかし、さしもの武田家も
天正10年(1582)に滅亡します。

時に、信繁は16歳。

主家を失った真田家は、
北条、徳川、上杉という大勢力に
囲まれる中、
昌幸は三者の間を巧みに泳ぎつつ、
一大名として独立を図ります。

何れかの家臣になってしまえば
楽だったのかもしれませんが、
昌幸はそうしませんでした。

そこには、
信玄に仕えた武田家・重臣としての
誇りと、
父・幸隆が血の滲む思いで奪還した
信州・小県から上州に及ぶ
支配地への愛情、
そして領民を自ら守り抜くという
信玄が示した「護民官」としての
意識があったはずです。

そんな昌幸に
「表裏比興 之 者」という批評が
浴びせられる事もありましたが、
昌幸からすれば、笑止千万でした。

小勢力が大勢力に
呑み込まれずに対峙するには、
手段を選ばず、
時に相手を手玉に取るほどの
智謀を用いなければ、
到底叶うものではないからです。

とはいえ、
信玄の姿勢を範とする昌幸は、
後ろ暗い策謀には
手を染めていません。

状況判断に基づき
的確に手を打つことで、
大勢力を相手に主導権を
握ってのけるのです。

一方、次男の信繁は、
真田の誇りを賭けて
肚を据えた父の姿を眺めつつ、
昌幸の手駒として、
越後の上杉家、
次いで大坂の羽柴家(豊臣家)に
人質として出向きました。

人質である以上、
信繁も多くの苦労を重ねたのでしょうが、
信繁の面白いところは
それをあまり感じさせず、
むしろ、
朗らかに自分にとっての
プラスの機会に転じたと
思える点でしょう。

兄の真田信幸(信之)は、
信繁を
「物ごと柔和忍辱にして強からず。
言葉少なにして、
怒り腹立つ事なかりし」
と評しています。

人当たりが柔らかく、
温和な印象を与える人柄であった事が
窺えます。

その為か、
信繁は人質として赴むいた先で
厚遇されました。

越後では、
上杉景勝から1000貫の扶持を
与えられ、

大坂では豊臣秀吉の勧めで
豊臣家・重臣の
大谷刑部吉継の娘(一説に養女)を
娶るのです。

勿論そこには、
真田家を陣営に取り込もうとする
それぞれの思惑があったのでしょうが、
信繁自身の個性も
大きく影響していたのではと
思わずにはいられません。

また信繁は、
上杉家では、景勝や執政の直江兼続と接し、

豊臣家では、
奉行衆の石田三成や大谷吉継らと
親しく交わりました。
彼らから学んだ事も
少なくなかったでしょう。

特に豊臣家に於ては、
重視されるのは家柄ではなく、
実力です。

その点、
信繁は何の劣等感も抱かずに、
小姓として励む事ができました。

更に、
天下統一に向かう秀吉を
実務面で支える三成や吉継が、
何を拠り所どころに働いているのかを
知ったことも、
信繁の目を大きく開かせたのかも
しれません。

彼らが目指しているのは、
乱世を終息させる統一政権の確立でした。

そこにあるのは、私利私欲ではなく、
戦乱を無くす事で
日ノ本の民が
安穏に生活できるようにし、
それにより国を富ませる志なのです。

まさに父・昌幸が信玄から学んだ、
「統治者は領民の生活を守る護民官であれ」
に通じるものでした。

そしてこれらを切っ掛けに、
信繁は真田家を外から客観的に眺め、
改めて昌幸が守る真田の誇りの本質が
「護民」にある事を
再確認したのかもしれません。

尚、岳父となる大谷吉継は
優れた官僚ですが、
同時に秀吉が
「百万の軍配を預けてみたい」
と評するほどの将器の持ち主でした。

信繁は軍略の面でも
吉継から多くを学んだ可能性は
十分にあるでしょう。




⬛【大乱を策す家康に、
                         真田の兵法で挑む】

「真田信繁は死に場所を求めて、
大坂・夏ノ陣に臨んだ」
と、時に語られる事がありますが、
信繁を、悲愴感に満ちた、
悲劇の将だとは全く思いません。

むしろ彼には、天性の明るさがあり、
どんな時でも、
顔を上げて口笛を吹いているような、
不思議な陽性を感じます。

慶長5年(1600)の関ケ原合戦 前夜、
真田昌幸は、
家を2つに割る決断を下します。

則ち、
昌幸と次男の信繁は西軍に、
長男の信幸は東軍につくという
選択でした。

信幸は
徳川家康の養女(本多忠勝の娘)を
正室にし、

一方の信繁は
大谷吉継の娘を正室にしていた事からの
苦渋の決断とされますが、
「喩え どちらが勝っても、
我らの本領と領民は真田の手で守る」
という、
昌幸の固い決意の表われと
受け取る事もできるのかも
しれません。

また、信繁にすれば、
大坂で三成や吉継が
私心なく尽力しているのを
見ているだけに、
統一政権を、あえて崩壊させようとする
徳川家康の私欲に与する事は、
望まなかったでしょう。

そして、
昌幸、信繁 父子は上田城に拠り、
徳川秀忠の大軍を迎え撃って
散々に翻弄しますが、
関ケ原では西軍が敗れ、
三成も吉継も落命します。

昌幸、信繁 父子は処刑されるところ、
死 一等を減じられて
高野山に配流となりました。

真田丸 父子にすれば、
「上田城では勝っていた」という
無念の思いはあったでしょうが、
目論見通り、
昌幸の支配地を信幸が代わって
治めることになり、
領民を真田が守る事ができたのは
せめてもの救いだったはずです。

父子は、
程無く高野山から麓の九度山に移り
蟄居生活を続け、
11年後の慶長16年(1611)、
昌幸は65年の波乱の生涯を
終えました。

信繁のもとに
豊臣家が大坂入城を要請してきたのは、
それから3年後のことです。


さて、
信繁は何の為に大坂ノ陣を
戦ったのでしょうか。

前述したように、
単に死に場所を求めたという見方は、
賛同できません。

喩えば、
信繁は生前の父・昌幸と共に、
遠からず徳川と豊臣は
手切れとなると読み、
高野山の玄関口である九度山を
情報収集に活用したといいます。

また、
情報を集めるべく活躍した忍びたちが、
真田十勇士のモデルになったとも…

つまり信繁は、
やる気満々だったのです。

では、何の為に戦うのか……

父・昌幸の場合は、
真田家当主として
領民を自ら守る為に
戦う意味合いを見出していました。

しかし信繁は当主ではなく、
領民を守る「護民官」としての役目は、
兄・信幸(信之)が果たしてくれています。

つまり、
立場的に信繁はフリーでした。

そこへ徳川家康が、
かつての信繁の主家・豊臣家に
言いがかりをつけ、
大戦を引き起こそうと画策し、
豊臣家が助けを求めて来た。

ならば、
これに応えるのが武士ではないのか…
そう考えても不思議ではありません。

また信繁にすれば、
かつて関ケ原合戦を引き起こして、
三成や吉継が支えた
統一政権を壊した家康への憤りと、
不遇のまま配流先で没した
父への思いもあった事でしょう。


そして、
「またも私欲で大乱を策す家康に、
戦場で一度たりとも
徳川に後れを取った事のない
真田の兵法の全てをもって挑み、
天下万民が注目する
最後の大戦の場で、
鉄槌を下す」
事を期したのではないでしょうか。

勿論、
これはあくまでも推測であり、
信繁自身の真意が
奈辺にあったのかは分かりません。

しかし、
だからこそ後世の私たちは、
家康を討ち取る寸前まで追い詰めた
信繁に、様々な思いや夢を仮託して、
人物像を思い描く事が出来るのでしょう。

いわば一人ひとりが、
それぞれの信繁像を抱いているといっても
過言ではないのです。

そんな懐の深さを持つ人物は、
日本史上でも稀有であり、
それがまた、
真田信繁が現在でも眩い輝きを
放ち続けている所以では
ないでしょうか。