「滝川一益、関東管領に任命」 ~3月23日の出来事~ | 歴史ブログ

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~3月23日の出来事~

【滝川一益を関東管領に任命】

天正十年(1582) 3月23日、
織田信長が滝川一益に
上野一国と信濃の一部を与えて
関東管領に任じ、
一益は小諸から厩橋城に入る。




織田信長に早くから仕えた重臣で、
鉄砲の射撃術に秀でたとされる
滝川一益は、
一説に大永五年(1525)、
近江 甲賀郡 櫟野(イチノ)城主
(滋賀県甲賀市)・滝川一勝の三男として
近江 甲賀郡 大原庄に生まれました。

幼名・久助、
のちに左近、左近将監、
また一時、伊予守を称します。

その出世は早く、
永禄十年(1567)の北伊勢 侵攻では
大将に任ぜられ、
天正二年の長島一向一揆 討伐後には
安濃郡 以北の北伊勢 五郡を与えられ
蟹江城(愛知県蟹江町)、
長島城(三重県桑名市)を
本拠としました。

天正十年(1582)三月、
信長は甲斐の武田勝頼を滅ぼしますが、
一益は信忠付きの副将格として活躍、
勝頼を田野に追い詰めて自刃させ、
その首を挙げています。

信長は この日、
一益の戦功を賞して
上野一国と信濃・佐久、小県二郡を与え、
関東管領に任じました。

ここに一益は、
信長から関八州の警固と
東国の取り次ぎ役を任される事に
なりますが、

柴田勝家(対・上杉氏)、
羽柴秀吉(対・毛利氏)と共に、
一益は対・北条氏の指揮官として
起用されたわけで、
織田家中における存在の大きさが
窺えます。

しかし、
一益が関東管領として存在したのは
ほんの僅かの期間でした。

同年六月二日に
信長が本能寺に倒れると
事態は急変します。

北条氏が一転して敵に回り、
一益は十八日に神流川(カンナガワ)で
北条氏邦 勢を破りますが、
翌日に北条氏直 勢と戦い大敗、
箕輪から小諸~木曽を経て
伊勢・長島へ戻ります。

織田家では
信長の後継者 決定会議・清洲会議が
六月二十七日に行われていますが、
一益は会議に間に合わず、
これ以後、織田家宿老からも
外される事になります。

一益は柴田勝家と組んで
秀吉と対立する立場を取りましたが、
結局、勝家は秀吉に滅ぼされ、
一益も降伏して
北伊勢五郡の所領は没収されました。

秀吉は
捨扶持(堪忍料)五千石を一益に与え
越前・大野に蟄居させますが、
同十二年に
秀吉と織田信雄、徳川家康が一戦に及ぶと、
一益は失地回復の絶好の機会とばかりに
秀吉に従い、
徳川勢と戦って
一時は蟹江城を奪い返しました。

しかし、
反撃に遭い、再び城を奪われた為、
秀吉の怒りに触れ、
一益は京都・妙心寺に入って出家、
入庵と号しました。

以後、
一益は歴史の表舞台に登場する事はなく、
同十四年九月九日、
僧体のまま越前・五分一の地で
亡くなっています。