~3月22日の出来事~
【第三次 高天神城ノ戦い】
天正九年(1581) 3月22日、
徳川家康が遠江・高天神城を落とす。
城将・岡部真幸(長教)は討死し、
家康が遠州を平定する。
高天神城(静岡県掛川市)は
初め今川氏の属城でしたが、
今川義元が永禄三年(1560)五月に
桶狭間で織田信長に敗れ討死すると、
以後、
今川氏の勢力は斜陽の一途を辿ります。
高天神城は西進する武田信玄と
東へ勢力を伸ばしたい徳川家康の
間に位置しており、
まずは、家康の調略により
城主・小笠原長忠(信興)は
徳川氏の配下に属しました。
高天神城を狙う武田氏は
元亀二年(1571) 三月、
信玄 自ら二万余騎を率いて
遠江に侵入、
内藤昌豊に高天神城を攻めさせますが、
城の守りは堅く
結局、失敗に終わっています。
やがて信玄が没し、
跡を嗣いだ勝頼は
天正二年(1574) 五月、
二万五千(二万とも)の大軍を率いて
再度、攻略を目指し、
調略と力攻めを並行して進めた結果、
六月になり
ついに小笠原長忠は降伏開城、
ここに城は武田氏の手に落ちました。
家康は信長に援軍を要請しましたが、
当時、信長は
越前の一向一揆に悩まされていて
援軍を送る余裕はなく、
ようやく岐阜を発して
三河・吉田に至ったところで
落城の報せを受けた為に
引き返しています。
奪回を目指す家康は
天正八年(1580)、
高天神城の周囲に六ヶ所の砦を設け
城攻めを開始しました。
城将の岡部真幸(長教)と
軍監・横田尹松は
勝頼に後詰を要請しますが、
勝頼にそんな余裕はなく、
結果的に見殺しにされる形となります。
城方はこの日、
重囲を突破して甲斐へと退去すべく
二手に分かれて城内から討って出て、
徳川勢と激戦が行われました。
その際、徳川方は、
城兵の首・七百三十を挙げたとされ、
堀は死者で充満したと伝えられています。
岡部は乱戦中に
大久保忠教に討たれますが、
横田は脱出に成功し甲斐へ辿り着きます。
しかし城は落ち、
武田氏は天正二年 以来
八年間保持してきた
遠江の重要拠点を失っています。