「織田信長、一揆勢を撃破」 ~2月29日の出来事~ | 歴史ブログ

歴史ブログ

古の先人たちに敬意を表し、歴史ブログとして記しております。

過去の今日はどんな出来事があったのかを記した
「今日の出来事」。

歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。


~2月29日の出来事~

【織田信長、一揆勢を撃破】

天正元年(1581) 2月29日、
織田信長が、
足利義昭に応じて
石山・今堅田で挙兵した一揆勢を破る。




足利義昭は織田信長の援助により
室町幕府 第十五代・征夷大将軍と
なりましたが、
初めのうちは良かったのですが、
自分が信長にとって
飾り物の将軍に過ぎない事が
分かると、
次第に険悪な仲となっていきました。

義昭はやがて
反・信長の旗幟を鮮明にすると、
急速に勢力を拡大する信長を
良しとしない大名と連絡を取り、
「信長包囲網」を築きます。

義昭の呼びかけには、
当時、屈強といわれた武田信玄や
畿内一円の広域に勢力を持つ
本願寺顕如、
更に浅井、朝倉、六角氏と
三好三人衆らが応じて
信長に対抗する意を表しました。

信長は前年の七月、
北近江・虎御前山に布陣して
浅井長政を圧迫すると、
浅井氏と親交のある
朝倉義景が救援に出陣、
信長と対峙します。

信長は
木下秀吉を虎御前山に置き
対抗しますが、
その時、
甲斐の武田信玄が上洛に向けて
腰を上げました。

九月二十九日に
別働隊の山県昌景に五千の兵を与え
先発させると、

十月三日になり
信玄自ら二万二千の兵を率いて
甲斐・躑躅ヶ崎(甲府)を出立、
遠江へ向かいます。

武田勢は破竹の進撃を続け、
十二月二十二日には
信長と同盟する徳川家康を
遠江・三方ヶ原にて撃破、
信長は窮地に追い込まれます。

ところが
信玄との合流を待たずに
朝倉義景が突如撤兵した為、
信玄や本願寺顕如から
非難を受けるなど、
「包囲網」の足並みは
重要な局面で乱れ、
絶好の機会を逸す結果となりました。

しかし義昭は諦めず、
この年の二月に挙兵すると、
近江・園城寺の
光浄院暹慶(山岡景友)たちが
義昭に応じ、
一向宗徒を糾合して
石山・今堅田に砦を築いて
籠もります。

信長は
柴田勝家、明智光秀、丹羽長秀、
蜂屋頼隆たちに討伐を命じると、
勝家たちは二十四日に
石山砦に攻めかかりました。

石山の砦は、
まだ完成していなかった為
信長勢の攻撃を防ぎきれず、
守将の光浄院暹慶は
二十六日に降伏開城しました。

信長は勝家に石山を守らせると、
直ちに今堅田砦への攻撃を命じます。

明智、丹羽、蜂屋の諸将は、
湖上や陸路から砦に殺到、
守将の磯貝新右衛門、渡辺宮内少輔は
ひと支えも出来ずに逃亡、
義昭の企ては失敗に終わりました。


更に、この頃、
武田信玄は陣中で労咳を患い
体調を崩しており、
西上を断念し
帰国途中の四月十二日、
信濃・伊那駒場の地で没しました。