【波多野晴通たちが八上城を奪回】 ~2月26日の出来事~ | 歴史ブログ

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~2月26日の出来事~

【波多野晴通たちが八上城を奪回】

永禄九年(1566) 2月26日、
波多野晴通、秀治たちが
松永久秀方の丹波・八上城を奪い返す。




丹波の国人・波多野氏が
永正年間に築いて以来、
本拠としていた八上城(兵庫県篠山市)は、
現在の篠山市街から
東南東へ約3km程の所にある堅固な山城で、
戦国時代には
何度も争奪戦が繰り広げられました。

天文年間の後半には、
三好長慶と細川晴元の対立が激しくなり、
天文二十一年(1552)正月には
晴元が出家して両者の間に和議が成立しますが、
内実は長慶の一方的な勝利でした。

しかし表面上は和睦しましたが
晴元はあくまで京都奪回を企て、
そこへ八上城の波多野晴通が加担します。

長慶は四月下旬に八上城を攻めますが、
従軍していた池田出羽守や妹婿の芥川孫十郎が
波多野氏に内応する事態となった為、
五月下旬に囲みを解き、
越水城に退却しました。

長慶は翌年八月に
芥川孫十郎を芥川城(大阪府高槻市)に
攻め落とし、

九月には松永久秀に命じて
八上城を攻めさせますが、
香西元成や三好政勝らの来援により
久秀勢は大敗、
またもや八上城攻略は失敗しました。

長慶は翌・弘治元年九月、
三好政康に命じて三度目の攻撃を仕掛けますが、
今度は細川晴元の来援により
またもや失敗に終わりました。

しかし、
弘治三年(1557)十月から
永禄年間初頭にかけて、
日時は不明ながら
長慶は八上城攻略に成功、
松永孫六(久秀の甥)を守将として入れました。

永禄九年(1566)二月、
本拠地の奪回を目指す波多野晴通は
孫六の守る八上城に攻め寄せ、
城を包囲した上で水の手を断ちました。

窮した城内では
松永方の援軍として加勢していた
別所勢が城から逃亡する事態となり
士気は一気に低下、
この日になって
孫六も城から脱出して尼崎まで兵を引きました。

ここに波多野氏は八上城を奪回、
秀治の代に明智光秀により滅ぼされるまで、
丹波の雄として存在します。