「武田勝頼の最期と、真田昌幸の決断」 ~表裏比興之者・真田昌幸、その強かさ~ | 歴史ブログ

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【武田勝頼の最期と、真田昌幸の決断】
~表裏比興之者・真田昌幸、その強かさ~




⬛【勝頼に従い、武田の意地を見せた男たち】

天正10年(1582)2月、
織田軍が武田領に侵攻。

信長による朝廷工作で
武田勝頼は「朝敵」とされ、
更に凶兆とされる
浅間山の噴火もあり、
武田家臣たちは
激しく動揺しました。

武田の一族縁者からも、
次々と織田方に内通する者が
現われます。

戦国最強を謳われた武田家が
瓦解を始める中、
しかし、あくまで勝頼に従い、
武田武士の意地を見せた男たちも
いました。

最初に、
高遠城に拠って
織田軍相手に徹底抗戦したのが、
勝頼の異母弟・仁科五郎盛信です。

2月末、
織田信忠 率いる5万の兵に包囲され、
降伏勧告を受けますが、
仁科はこれを峻拒。

「当籠城衆は一命を勝頼の武恩に報いる覚悟。」
「不義臆病の輩と一緒にすべからず。
早々に馬を寄せられよ。」
信玄以来鍛錬の武勇のほど、
お目にかけよう。」

織田軍の総攻撃は
3月2日に始まり、
仁科は3000の将兵で
果敢に迎え撃ちます。

中には自ら得物をとって戦う
武将の奥方もいて、
見事な戦いぶりを示した末、
士卒ことごとく
壮絶な討死を遂げました。

高遠城が落ちると、
武田一族の重鎮・穴山梅雪が
徳川に内通。

織田軍の接近に
武田勝頼は本拠の新府城を捨て、
一旦は真田昌幸の勧める
上州・岩櫃城に向かう気になりますが、
小山田信茂らの進言や
浅間山噴火もあり、
方針を変え
小山田の居城・岩殿城に向かいます。

ところが土壇場で小山田は裏切り、
道を塞いで勝頼一行を通さず、
鉄砲を撃ちかけました。

進退窮まった勝頼は、
激減して僅か40余名となった
従者と共に、
かつて室町時代に
武田信満が自刃した
天目山(木賊山[トクサヤマ])に
向かうのです。

3月10日、
天目山麓の田野にいた
勝頼一行のもとを、
一人の男が訪れました。

小宮山内膳(コミヤマ ナイゼン)といい、
勝頼の勘気を蒙って
蟄居中の身でしたが、
主家を見捨てるのは
不義理であるとして、
運命を共にすべく
駆けつけたのです。

勝頼の側近たちは
小宮山の忠義に感激し、
泣いたといいます。

しかし翌3月11日、
ついに最後の時が訪れました。

滝川一益 配下の
織田の精鋭5000が、
勝頼一行の前に現われたのです。

僅か40余名の手勢ですが、
勝頼に従う者たちは、
織田軍と戦う道を選びました。

諸説あるものの、
秋山紀伊守や安倍加賀守らは、
敵を数度撃退したといわれます。

特に土屋昌信は
断崖に立ちはだかり、
蔓を握ったまま
迫りくる織田兵を
片手で次々に斬り捨て
谷底に落としました。

「片手千人斬り」といわれる伝説が
残るほどの奮戦であったと
いわれます。

武田勝頼の最期は
定かではないものの、
こうした家臣たちが奮戦して
時間稼ぎをしている中、
自刃します。

嫡子の信勝、
また北条家から嫁いでいた夫人も
自害し、
武田家はここに滅びました。

多くの家臣に裏切られながらも、
一方で
最後まで付き従う忠臣たちも
いたことは、
勝頼への
せめてもの餞(ハナムケ)だったと
いうべきでしょう。




⬛【真田昌幸の決断と謀略】

一方、
岩櫃城で勝頼の訃報に接した
真田昌幸は、
悔し涙を流したといわれますが、
悲しんでいる暇はありません。

武田家という
巨大な後ろ盾をなくした真田家は、
信州・小県から上州・吾妻、
沼田を領する国衆となりました。

この真田領を如何に守るかに、
知恵を絞らなければならないのです。

実は昌幸は、
勝頼の死よりも以前から、
北条と交渉をしていました。

これは武田への裏切りではなく、
気脈を通じる素振りを見せながら、
あらゆる可能性を探っていたと
見るべきなのでしょう。

3月12日付に
北条氏邦(北条氏政の弟)が
昌幸に宛てた手紙があります。

そこには、
「此度の武田家の成り行きは
是非もないことだ。」
「あなたのところへ
箕輪(上州 箕輪城主・内藤昌月[マサアキ])
からも連絡がある筈である。」
「北条家に忠信を尽くすのは今である」
と、
昌幸の北条家への随従を勧めています。

内藤昌月は
信濃の保科正俊の子で、
内藤昌秀の養子。

武田家の
上野支配の奉行の一人として
活躍しましたが、
この時期、
昌幸よりも早く
北条家に帰順しており、
北条氏邦は内藤を窓口にして、
真田昌幸をも帰順させようと
していたのでしょう。

しかし、
昌幸は易々と北条に従う気はなく、
一つの駆け引きとして
交渉を行なっていました。

というのも、
昌幸は ここで謀略を仕掛けた節が
あるのです。

『加沢記』によると、
昌幸は
「織田軍は次に
 小田原と越後に攻めかかる」
という風聞を流しました。

実際に織田軍は、
既に上杉領を攻撃しています。

また織田と協力関係にある北条も、
信長の前では
決して安泰ではないという
揺さぶりをかけたのでしょう。

その上で昌幸は、
上杉と北条の両方に
援兵を請う密書を送りました。

つまり、
上杉、真田、北条が一丸となって、
織田に対抗しようと持ち掛けたのです。

しかし、これもまた、
昌幸の本心ではありませんでした。

昌幸はこの密書を、
わざと織田方の手に落ちる様に
仕向けたのです。

実際、
密書を手にした織田信忠は
驚きました。

「北条、上杉、真田が同盟を結べば、
面倒な事になる」。

そこで織田方は、
昌幸の懐柔に乗り出します。

実は、
この織田方からの接近こそが、
昌幸の狙いでした。

もとより昌幸は、
織田への従属を決断していたのです。

しかし、
どうせ従属するのであれば、
出来るだけ自分を高く売りつける、
その為の謀略でした。

相手に自分を高く売りつけるという
昌幸の姿勢は、
まさに彼の「基本姿勢」であり、
これから何度も現われてきます。

昌幸の強か(シタタカ)さともいえますが、
こうでもしなければ
真田領を死守できなかったのも
事実です。

そして昌幸の戦いは、
この後も続くのです。