[短編・其3]「徳川勢を震え上がらせた、真田昌幸」 ~合戦、其の知謀、其の武勇、其の軍略~ | 歴史ブログ

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  【徳川勢を震え上がらせた、真田昌幸】
  ~合戦、其の知謀、其の武勇、其の軍略~
       [其3](最終話)







⬛【真田昌幸の智謀と、底知れぬ胆力】

突出攻撃の機を伺っていた昌幸が
馬に打ち跨って命じる。



「門を開け‼」
大手門が内側から開かれる。



「突っ込むぞ !」
「者共! 儂に続けぇぇー‼‼」

槍をしごいた昌幸が
馬の脇腹を踵で蹴り、
先頭を切って突いて出た。


旗本勢も
後れをとってはならじと先を争い、
剣戟刀杖をキラめかせて
全力で駆けだしていく。

時を移さず、
横曲輪へ一旦 撤退していた
常田と高槻が率いる部隊も
横槍に突きかかり、
町家に火を放った。

放火も昌幸の命令だった。

町人は事前に避難させており、
無住となっている町家に
次々と松明を投げ込んでいく。


折から、強風が吹き荒れており、
紅蓮の火焔は渦を巻き
たちまち四方に飛び散り、
朦々たる黒煙が城下を覆い尽くした。


更に、
昌幸が四方の山や谷に
埋伏させていた領民3000余りが、
城内でドドン・ドドンと乱打される
陣太鼓の音を合図に
紙旗を押し立てて群がり起こり、
徳川勢の側背へ襲いかかった。

城内へ入った領民と同じく、
昌幸の仁慈に報いての合力であり、
鳥獣を放ち、石礫を投げつける。

農民は鎌や鍬を、
町人は竹槍や棍棒を手にして
徳川勢の撤退路に立ち塞がった。


「敵は小勢ぞ。」
「退くな‼、 退くな‼」

進退に窮して
思わず立ち往生する徳川勢に向かい、
大久保ら寄せ手の諸将が
鞍壺を叩いて叱咤激励する。

しかし徳川勢は、
千曲川と神川を渡河した為、
戎衣は水に濡れて重くなり、
戦闘能力も低下している。

指揮系統も寸断され
陣形を立て直す余裕はなく、
浮足立って総崩れになった。

しかも堀切に落下し、
千鳥掛けの柵に遮られ、
黒煙に眼路を塞がれ
進退はままならず、
混乱に、益々 拍車がかかる。


「追えぇぇー‼」
「後を慕たって皆殺しにしろ‼」

真田勢の諸将が此処ぞとばかりに
尾撃を命じる。

徳川勢の背後に槍が繰り出され、
刀が振り下ろされる。



徳川勢は、
唯、斬り殺されるのを
待っているかの様な、
一方的な追撃戦だ。

徳川軍の将士のなかに、
踏み留まる者も、
踵を返す者もいない。

死傷者を続出させながら
雪崩を打って潰走し、
かろうじて
神川の渡河地点まで逃れた。

だが、
そこに新たな敵勢が現れた。


戸石城にあり
後巻の機会を伺っていた
信幸の麾下800の将兵が、
染谷郷から横撃してきたのだ。

真田勢は徳川勢を押し包むように
三方から攻撃を加える。

神川を渡河するしか逃れる術はない。

その神川は
数日来の雨で増水して
激流と化している。

水深を探れば渡河はできるが、
真田勢に追い落とされては
それもままならず、
溺れ死ぬ者が続出して
勝敗は決した。

徳川勢の戦死者は1300余り、
溺死者は数知れずで、
真田勢の犠牲者は
僅か40人ほどだった。

徳川勢の惨敗であり、
この合戦に参陣した大久保忠教は、
自軍の将たちの不甲斐なさを


「悉く腰がぬ(抜)けはて」
「ふる(震)ゐまはりて物もゆ(言)はず」
「げこ(下戸)にさけ(酒)を
し(強)ゐたるふぜい(風情)なれば
力もなし」
(『三河物語』)
と慨歎している。

汚名返上を期す徳川勢は、
同月20日、
丸子城を攻めたが攻略に失敗。


その後、家康は、
井伊直政に5000の兵を預けて
上田城 再攻撃を命じたが、
作戦を発動しないまま対峙していた。

しかし、
対峙していた11月、
突然全軍を撤兵させた。

家康の腹心だった石川数正が
家康から離叛し
大坂城の秀吉のもとへ奔った為、
秀吉との関係が再び緊迫して
真田攻めどころではなくなったのだ。



この上田合戦(神川ノ戦い)で、
秀吉ですら苦戦を強いられた
徳川軍を、
寡勢でもって撃砕した昌幸の武名は
一躍天下に轟き渡り、

独立大名としての地位を確立した。



そして、
鬼神も三舎を避けるほどの
昌幸の智謀と
底知れぬ胆力の血譜は、
信幸、信繁 兄弟に
受け継がれていくのである。





 【徳川勢を震え上がらせた、真田昌幸】
 ~合戦、其の知謀、其の武勇、其の軍略~

        【 完 】