[短編・其1]「徳川勢を震え上がらせた、真田昌幸」 ~合戦、其の知謀、其の武勇、其の軍略~ | 歴史ブログ

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過去の今日はどんな出来事があったのかを記した
「今日の出来事」。

歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。


【徳川勢を震え上がらせた
 真田昌幸、上田合戦の策略】
~其の知謀、其の武勇、其の軍略~



⬛【父祖伝来の地は渡さぬ‼】
~真田昌幸、獰猛・徳川勢を迎え撃つから~



「徳川勢など、何万騎押し寄せようと
恐れるに足りず。」

「家康は三方ケ原で御館様(信玄)に
散々に打ち破られ、
恐ろしさの余り、逃げ帰る馬上で
糞を垂らした男ぞ。」

不敵な相貌の昌幸が吠えると、
将兵らがドッと沸わいた。

天正13年(1585)閏8月、
徳川の精兵7000の侵攻に、
上田城に拠る真田は2000。

しかし、
上田城と城下には、恐るべき仕掛けが
幾重にも施されていた。





⬛【徳川勢、恐れるに足りず】


「如何に徳川中納言(家康)といえど、
理不尽 極きわまりない命令じゃ。」
「武威を恐れて泣き寝入りしては、
真田の弓矢がすたる。」

天正13年(1585) 初秋。
残暑に包まれた上田城。

真田昌幸が一族と老臣を集めて
評議している。

天正壬午の乱のおり、
家康と北条氏政・氏直父子が
講和・同盟した結果、
上野は北条氏が領する事になり、
家康は昌幸に
沼田領を北条氏へ引き渡すように
命じた。

それに、
どう対応するかの最終評議である。



「沼田は中納言から拝領したものではない。」

「真田家が武略で切り取った地だ。
唯唯諾諾と引き渡すことはできぬ。」



「されば、手切れで御座るか。」



「うむ。」

「引き渡しを拒めば、
中納言がこの城へ攻めかけてくるは
必定なれば、
弓矢、鉄砲をもち
会釈するほかあるまい。」

「ついては、汝らの命、儂にくれい。」


家康は
三河、遠江、駿河、甲斐、南信濃で
約150万石を領する巨大大名だが、
決心の臍は鉄石よりも堅く、
武力衝突も辞さない覚悟の
昌幸の双眸からは、
猛禽類のそれに似た
勁烈な光が放たれている。



「はっ‼」
「一命はもとより、全て殿の思し召しのままに。」

首を横に振る者は皆無だった。
主従、決死の覚悟である。



「徳川勢が何万騎押し寄せようとも、
恐れるに足りずじゃ。」

「中納言は三方ケ原で
御館様(武田信玄)に完膚なきまでに
叩かれ、
命からがら遁走する途中、
恐怖のあまり馬上で脱糞した男ぞ。」

昌幸の相貌に不敵な笑みが浮かんだ。

家康との一戦は、
長篠・設楽原ノ戦いで討死にした
長兄・信綱と、次兄・昌輝の
弔い合戦でもあり、
闘魂はいやが上にも燃え上がる。

しかも、
戦国・屈強武将の信玄に近侍して、
その戦略・戦術を余すところなく
学び、
自家薬籠中のものにしている昌幸は、
坐して徳川軍の来攻を
待っているような凡将ではなかった。

天正壬午ノ乱後に
北信濃にまで勢力圏を拡大していた
越後の上杉景勝に
次男の信繁(幸村)を
人質として差し出し、
盟約を結んで加勢を依頼すると共に、

家康を膝下に組み伏せての
覇権奪取を目論む羽柴秀吉とも
誼みを通じるべく、
書状を送る算段を整えた。

稀世の智謀の将ならではの
外交戦略である。

一方の家康は、
案の定、沼田領引き渡しの峻拒と
景勝への鞍替えに激怒し、
上田城攻めの軍勢を催した。 

鳥居元忠、平岩親吉、大久保忠世、
柴田康忠らの三河譜代衆に、
松平康国、諏訪頼忠、保科正直、
小笠原信嶺ほかの信濃諸将、

三枝昌吉や武川衆らの
武田遺臣からなる派遣軍は、
総勢およそ7000(実数は1万以上)を
数える。

徳川勢雷発の飛報に接した上田城では、
迎撃準備が急がれる。

支城の戸石城には
嫡男の信幸 以下
800を入れ、

矢沢城には
従弟の矢沢頼康、

丸子城には
丸子三左衛門を配し、

昌幸は400の将士と共に
上田城に籠もった。

だが、動員できた兵力は
徳川勢の3割にも満たない
2000ほどでしかない。

そこで、
寡兵で大兵を邀撃する一策として、
徳川勢の突撃路になると予想される
染谷筋(大手筋)の所々に
深さ1間(約1.8m)、
幅1間ほどの堀切を掘り、
あちこちに千鳥掛(互い違い)に
結い上げた柵を設けた。

斯くして迎えた 閏8月1日、
北国街道を進軍して
信濃へ攻め込んだ徳川勢は
千曲川南岸に台地をなす
八重原に着陣。

翌2日、
千曲川を大屋付近で渡り、
神川東岸の蒼久保に進出。

小休止する間に
神川の浅瀬を探し、
一気に押し渡るべく水飛沫を
跳ね上げはじめた。



⬛【短編・其2に続く…】