「第一次 上杉合戦」 ~真田昌幸の処世術~ | 歴史ブログ

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古の先人たちに敬意を表し、歴史ブログとして記しております。

過去の今日はどんな出来事があったのかを記した
「今日の出来事」。

歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。


⬛【上田合戦 起こりの事】

天正十年 三月十一日、
甲斐の国主・武田四郎勝頼が、
甲州・田野の天目山に於て
織田信長の為に自殺に追い込まれた後も、
真田安房守昌幸 父子は
上州・沼田の城と信州松尾の城を領し、
威を近国に振るっていた。

ところが同年六月二日、
織田信長が京都に於て
明智日向守光秀に討たれた為、

関東の諸大将は
甲州、信州、上州の内に蜂起し、
甲州の郷民や武田の残党は
河尻肥後守重能 (甲州を領す)を殺し、
相州の北条氏政は兵を率いて
上州に乱入し、

同月二十八日、
厩橋の城にいた滝川左近将監一益と戦い、
滝川は力つき勢州へと逃げ帰った。

信州・川中島の城主・森勝蔵長一も、
その領地(更級郡、水内郡、高井郡、埴科郡)
を捨てて逃亡した。

このような中、
信州や甲州の諸大将は
互いに威を争い、
領地を併合しようという志を
持たない者はなかった。

越後の上杉喜平次景勝は
信州を奪おうとして川中島に出張り、

北条左京大夫氏政は
甲州を奪おうとして郡内に出張った。

徳川家康公も甲州に出張って
甲府に陣を据えられた。

北条氏直は上州の碓氷峠を経て
信州佐久郡に出張った。

この時、
真田昌幸は上州・沼田にいたので、
氏直に従って信州に発向した。

家康公の寵臣、
大久保七郎右衛門忠世は、
依田右衛門佐信蕃(或いは芦田下総守)に
「貴殿と真田安房守は旧友である。
謀をもって真田を家康公の麾下に
付けられたなら、
一城を攻め落としたよりも
大功となろう」
と言った。

依田信蕃は
「真田を味方にするのは
容易ではあるが、
家康公から大禄を賜わるならば
真田にこの旨を告げよう」
と答えた。

そこで、大久保忠世がこの事を
家康公へ申し上げたところ、
家康公は大いに喜ばれ、

「真田を我が方に引き入れたならば、
安房守は言うに及ばず、
依田右衛門佐にも重く恩賞を与えよう」

と杉浦七蔵を使者として朱印を賜わった。

その後、北条氏直と家康公が
甲州・若神子表で
八月から対陣した時に、
安房守・昌幸は家康公の味方として
信州・岩村田の黒岩の城を乗っ取った。

そして、
依田右衛門佐と示し合わせ
同十月に上州・碓氷峠に出張り、
北条家の糧道を断ち切ったので、
北条家の軍勢はやむなく和を請い
引き退いた。



⚫ある記によると、
八月二十九日に
北条氏直と家康公と和睦があり、
家康公からは上州・沼田の城を
氏直へ遣わされ、

氏直からは甲州・都留郡と
信州・佐久郡を家康公へ遣わして
速やかに兵を引いた云々。

その後、秀吉公から

「上州、信州、甲州の三か国は、
家康公と北条家の両者で
手柄次第に自分のものとしてよい」
との下知があり、
甲州と信州は家康公のお手に入り、
上州は北条家の領地となった。

その時、
「安房守・昌幸の領地・沼田の城は
上州の内にあり、
殊に境目でもあるので、
かの地を北条家へ渡す」
という氏直と家康公との約束が
あった。

家康公から真田昌幸へ

「その方の領分である
上州・沼田の地を北条家へ渡せ。
その替地は信州の内で、
こちらから出そう」
と仰せられた。



昌幸は、
「某、一昨年より御味方を申した上は、
替地をさえ下されるならば、
すぐにも沼田を北条家へお渡ししましょう」
と答えた。

家康公からは、

「替地は信州・伊那にて
出す予定である。
まず沼田を渡したならば、
その後に替地を出そう」
と再三使者があった。



真田昌幸は
「家康公は、某を行く行くは
手障りになるに違いない者と
お考えになられ、
領地を削って小身に為し、
ついには我が家を
滅ぼそうとする謀である」
と考え、

二人の息子、
源三郎信幸と源次郎信繁、
譜代旧功の家臣らを召し集め
相談した。

家臣たちは
「家康公の武威を見ると
日々に高まっております。」

「その上、今日までお味方をし
忠節を尽くされてきたのですから、
沼田をお渡ししたならば、
きっとその替地を
早速にも遣わされるに違いありません。」

「打ち捨てておかれる事はないと思います。
家康公の仰せ寄こされた旨の通りに
任せられるのが宜しいでしょう。」
と申し上げた。



昌幸は、これを聞いて、
「汝らが申すところも、最もである。」

「しかしながら
沼田を渡したその上に、
替地の事は沙汰もなく、
上田をも渡せと言われた時は
各々はどう思う。」
と返した。

家臣たちは
「その様に理不尽な事はないと
思われます。」

「もしその様な事であったならば、
一同命を捨て籠城仕ります」
と申し上げた。



昌幸は大きく笑って
「此度、沼田の城を渡して小身になり、
その上でくれるという各々が命を、
唯今申し受けよう。」

「兎角に手切れをする
という事ならば、
沼田の城をも所持したままで
手切れするのがよい謀である」
と言った。

そして
上田へ龍城する事にお決めになり
家康公へ、こう再返答した。



「某こと、
一昨年 甲州へ御出張りの際、
最初よりお味方に参り
粉骨を尽くさせて頂きました。」
その為、速やかに信州が
お手に入ったのです。」

「ですから御褒美を頂戴しても
よいところであるのに、
その沙汰もなく、
結局、真田昌幸が力を尽くし
鉾をもって手に入れた沼田をも、
替地も下されずに召し上げる
という事は迷惑に存じます。」

「そもそもこの沼田は
徳川殿、並びに北条家より
申し受けた領地ではございません。
昌幸が武勇をもって領する所
ですので、
意のままに支配せよとこそ
仰せられるべきなのに、
沼田を北条家へ渡せとは
覚悟に及ばぬところです。
どうして差し上げる事ができましょう。」

「この上は家康公のお味方を申し、
忠節を尽くしても甲斐もない事です。
沼田を渡す事は思いも寄りません」
と、きっばりと断わり、
いよいよ手切れとなった。



家康公は、大いに腹を立てられ
「この上は大軍をもって
上田の城を攻めよ」
と評議された。



⚫別の記では、
天正十年 六月二日に
織田信長が京都に於て死した後、
甲州は家康公の領地となった。

一方、相州・小田原の
城主・北条左京大夫氏政は
甲州を攻め取ろうと、
嫡子・新九郎氏直を大将とし
大軍を添えて甲州へ出張らせた。

家康公はこれを聞かれて
軍兵を率いて甲州へ発向され、
数カ月の間、北条家と対陣し、
互いに勇を振るい合われた。

その時、
北条氏政の舎弟・美濃守氏規は
様々にとりなし、
両家の和睦を成立させた。



これにより
「北条家からは
信州・佐久郡を家康公へ渡し、
家康公からは
上州・沼田を北条家へ渡す」
と約束し、
双方共に軍を引き揚げた。

その後、北条家は、
信州・佐久郡を家康公へ渡し、

「約束どおり、上州・沼田を渡してもらいたい」
と申し送った。

その為、家康公は使者を
沼田の城主・真田安房守昌幸 方へ
遣わし、

「その方の領地・沼田の城地を
北条家へ渡せ。
その替地は他所にて遣わそう」
と仰せられた。



昌幸は、
「そもそもこの沼田の領地は、
徳川殿、北条殿より頂戴した
所領では御座いません。」
「安房守が一身の才覚・武勇をもって
手に入れた所領です。」
「理由もなく北条家へ渡す事は
思いも寄りません。」

その上、昌幸は、
「徳川殿の麾下に属して以来、
度々、軍忠を尽くしたにも関わらず、
恩賞の沙汰も無く、
これをこそ不審に思っているその上に、
自力をもって手に入れた領地を
差し出せとは
覚悟に及ばぬところです。」
「それ故、
沼田を北条家へ渡す事は
決して叶う事ではありません」

と申し切って、
家康公のお使いを返した。

家康は大いに怒り、
大久保忠世、鳥居元忠、平岩親吉を
大将として
兵を信州へ遣わし、
上田の城を攻めさせられたと云々。







⬛【第一次上田合戦】(神川ノ戦い)


籠城戦に於て、
寡兵を以って敵を篭絡する。
真田昌幸の籠城戦。




⬛【籠城の背景と真田家の立場】

上州・真田家は、
天正十年(1582)武田家 滅亡後、
家名存続のために
織田信長から北条氏直と主を変えた後、
徳川家康に仕えていました。

同・六月、
信長が本能寺に斃れ、
信濃は上杉、北条、徳川が
三つ巴で争う場となります。

真田家 当主・真田 安房守 昌幸は
北条家に臣従します。

やがて北条家との関係は立ち行かず、
甲斐、南信濃での
徳川家康の経略が優れていたので、
昌幸は同・十月、
大久保忠世、依田信蕃を仲介に
徳川家に臣従します。

徳川家康は「本能寺ノ変」後、
勢力拡大と「三方ヶ原ノ戦い」で失った
多くの家臣の穴を埋める為に、
武田 旧家臣団の吸収に努めていました。

故に、
北信濃の要衝を押さえる真田家に
好意的だったのです。

昌幸は織田信長の信濃仕置き以来、
本領である小県を支配の中心として
上田城築城を家康に打診します。

当時、家康は、
上杉景勝の北信濃侵攻を阻止する為、
甲府まで出陣していました。

昌幸の上田城築城の申し出は
家康にとり信濃防衛に好都合であり、
周辺 城主たちにも
築城を援助するよう取り計らいます。

しかし天正十二年(1584)、
家康は織田家の後継者 問題で
秀吉と対立し、
「小牧・長久手ノ戦い」に至ります。

この際、
家康は後方の敵・北条家と和を結び、
秀吉との徹底抗戦に備えます。

家康は北条家に和の代償として、
当主・昌幸に無断で
真田家の沼田城を
北条家に割譲する約を結んでしまいます。

昌幸は、この家康の処遇に激怒し、
今度は上杉家 海津城代・須田満親を介し
信濃国境で対立していた上杉景勝に
次男・弁丸(後の信繁=幸村)を
人質として差しだし 和を乞います。

景勝はちょうど川中島周辺を
固めていたところなので、
昌幸の行動には疑念を持ちつつも
北信濃の磐石を見越して
臣従を認め援助を約束します。




⬛【昌幸、上田城に籠城す】

かくして
天正十三年(1585)八月二日、
籠城史に名高い、
「第一次 上田合戦」(神川ノ戦い)が
開始されます。

家康は
秀吉と「小牧・長久手ノ戦い」後に
講和を終えると、
地方小大名・真田家の
離反・独立により傷つけられた
威信を回復するために、
鳥居元忠を総大将として
平岩親吉、大久保忠世らに
およそ7七千~1万の兵を率いさせ
真田領に侵攻させます。

昌幸は是を受けて
築城の途中である上田城での
籠城を敢行。


徳川軍は上田 城東方の
国分寺方面に押し寄せました。



主将・昌幸は、
自ら率いる4~500余りを
上田城本丸に、

城の横曲輪(ヨコグルワ)を初め
諸所にも兵を配置、

城の東南の神川(カンガワ)に
200の前衛部隊、

伊勢山(戸石城)には
嫡男・信之の800余り、

籠城方、総勢2000余りを配置します。

上田城下には
千鳥掛け(互い違い)に結いあげた
柵を設け、

複雑な並びの町家、山野に、
約3000の武装農民を配し、
紙幟(カミノボリ)を差し連ねさせ
伏兵としました。


『武家事記』によれば、
上田城は南を千曲川(チクマガワ)、
西・北は千曲川の支流・矢出沢川を控え、
土塁中心の石垣の無い
簡素な平城だったと伝えられています。

小田原城は100を超える
支城、砦があり、
既に、
おびただしい武器、兵糧、弾薬、衣服が
集積されていました。




⬛【神算鬼謀・真田昌幸】

徳川勢の先手が
城の東南の神川(カンガワ)に差し掛かると、
200の真田 前衛部隊は
これを迎え撃ち、
槍を数回あわせると後退し始めます。

昌幸 自身は、城門を閉ざし、
櫓の上で甲冑も纏わずに
城下の戦況を尻目に
家臣と碁を打っていました。

真田勢が小勢で抵抗も無いので、
徳川勢は一気に城を落とそうと
城内に雪崩れ込みます。

城外にいた200の前衛部隊は
押し捲られて、
横曲輪(コヨグルワ)に後退、集結します。

尚も昌幸は、
三国志の諸葛亮が
「街亭ノ敗戦」で司馬仲達を退けた、
『空城計』のように碁を打ち、
ついには、
若侍に手鼓で調子を打たせ
名高い『高砂の謡』をうたって
徳川勢を挑発します。

ここで鳥居元忠が
司馬仲達のように退けば
戦いは長引いた事でしょうが、

余りに城内に易々と入れた為、
勇猛な三河兵は勢いと共に
鬨ノ声を上げて
大手門も突破しようとします。

この時、昌幸は、
城門上に隠した丸太を落とさせ、
徳川勢に弓、鉄砲を撃ち掛けました。

更に、
城内の500の兵と横曲輪に集結した
兵を押し出させ、
上田城の町家には
折からの強風に乗せて火を放ちました。

山野に伏兵していた武装農民は
この火を合図に一斉に陣太鼓を鳴らし
徳川勢に打ちかかり、
真田信之の指揮する800は
戸石城より討って出て
徳川勢の退路を遮断します。

徳川勢の先手は状況が急転し
四方に敵を受け
指揮系統が乱れますが、
手柄を目指して猛進する
後続の兵士達は急に止まれず
籠城方の挟撃を受けました。

しかも設置してあった
千鳥掛けの柵に引っかかり、
複雑な町家に退路を見失い、
徳川勢は大混乱に陥ります。

城壁に辿り着いた徳川兵士たちも
鉄砲隊に次々と撃ち落とされます。

甚大な被害を受けて
北国街道に撤退する徳川勢は、
戸石城から討って出ていた
真田信之の突撃を腹背に受け、
陣は崩され、四散した兵は
神川で溺死するという被害も
出しました。


真田信之 書状によると、
この戦いでの徳川方の死者は
1300余り、
大久保忠教によれば300名余りと
されています。

一方の真田方の死者は40余りと
されています。


大久保彦左衛門の『三河物語』では
徳川勢を指して、

~悉く(コトゴトク)腰が抜けはて、
 震えて返事も出来ず、
 下戸に酒を強いたるが如し~
と評している。

徳川の旗本が
敗北を認めたという事になります。




⬛【神川(カンガワ)合戦の後】

戦果の無い徳川勢は
東に位置する
北佐久郡・丸子城を落とそうと
矛先を変えますが、
城将・丸子三左衛門は
良く是を防ぎました。

徳川家康は
井伊直政を後詰として派遣し、
真田昌幸が送った増援
(上田寄り・丸子城の西に位置する尾野山城に派遣)に
充てます。

しかし九月下旬、
徳川勢はやむなく撤退します。

家康と秀吉が和睦して
秀吉が関白になると、
今度は昌幸が秀吉に臣従し、

上杉景勝が上洛した隙に
次男・弁丸(後の信繁)を
春日山から脱出させ、
秀吉の元に
近侍として差し出しました。

これを聞いた景勝は
烈火の如く怒りますが、
関白 預かりとなった真田家には
最早、手出しをする事は
出来ませんでした。

この戦いで真田の家名は
天下に轟き、
徳川家康と真田昌幸の関係は悪化、
後の第二次 上田合戦へと繋がります。