「織田信長、家臣の妻子を安土へ」 | 歴史ブログ

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歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。


~1月29日の出来事~

【織田信長、家臣の妻子を安土へ】


天正 六年(1578) 1月29日、
織田信長が国元に残っていた
家臣の妻子を安土へ移させる。



織田信長は天正 四年(1576)正月に
丹羽長秀に命じて
安土城(滋賀県安土町)の築城を開始、

早速 二月二十三日には
居城を、まだ建設途中の安土城へと
移しました。

天守はまだ完成していませんが、
二年が経ち、
ようやく城下の体裁も整ってきた
この日、
信長の弓衆の一人で、
安土城下に住む
福田与一という者の家で
火災が発生しました。

調べたところ、
与一は家族を尾張に残し
一人で移ってき事がわかり、

信長は、
「これも妻子を連れて
安土へ移住して来なかった為に
火災が起こったのだ ‼」
と激怒しました。

信長は、直ちに菅屋長頼を
安土城下の町割り奉行に任命し、
家臣たちの移住の実情を
調べさせたところ、

弓衆 六十人、
馬廻り衆 六十人、
合計 百二十人の者が
妻子を尾張に残し
「単身赴任」していた事がわかり、
信長は皆に叱責を加えました。

今でもそうですが、
当時、火災は最も用心するべき事の
一つで、
一軒の火災で城下が全滅してしまう
危険もあったわけですから、
信長が激怒したのも
無理はありません。

しかし、
ここから信長の本領が発揮されます。

信長は長男で岐阜城にいる信忠に
使者を発し
岐阜から奉行を出させ、
尾張に妻子を残したまま
安土へ来ている家臣たち
全ての家に火を放ち、
庭の竹木まで切り倒させたのです。

このため、
上記 百二十人の妻子は住む場所を
奪われ、
取るものも取らず
安土へと移住せざるを得なくなりました。



信長は、
この事件の代償として、
此れらの者に対して
城下の南に新道を築かせ、
それをもって許したという事です。