「真田信繁(幸村)」と井伊直孝、真田丸で対峙する 2つの「赤備え」 | 歴史ブログ

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【真田信繁(幸村)と井伊直孝、
 真田丸で対峙する2つの赤備え】
~日本一の兵と井伊の赤牛、激突 ‼~



大阪冬ノ陣で、
大阪城の南側に真田丸という
出城(砦のようなもの)を築いて
徳川勢と対峙した真田信繁。

この真田丸は攻めにくく
守りやすい造りになっていて、
大阪城を包囲した徳川勢も
容易には攻め込めませんでした。

そこで真田信繁が一計を案じ
徳川勢の前田利常 隊を誘い出し、
それに連動して井伊直孝も
攻め込んできます。

この時、
真田信繁と井伊直孝の率いる
赤備え同士での戦闘が繰り広げられ
ました。




⬛【赤備えとは…?】

そもそも赤備えとは、
どういったものなのでしょうか…?

赤備えとは、
兵士の甲冑や旗指物などの軍装を
全て“「朱(赤)」”一色に統一した軍団の事。

武勇に優れた者のみが
持つ事を許された朱槍というものが
ある事からも分かる様に、
朱色(赤色)は優れた武将のみが
使えるものでした。

また、
朱一色で統一された軍団は
戦場で大いに目立ち、
兵の数を多く見せる効果も
あったとされています。

つまり、
赤色を軍装に使う事で
他の軍団との差別化を図り、
精強な軍団である事を示す
意図がありました。

そして、その赤備えを
自分の軍団の軍装に取り入れたのは、
武田信玄の家臣あり、
“甲山の猛虎”と言われる、
飯富虎昌(オブトラマサ)という人物。

飯富虎昌は、
信玄の下で戦功を上げた武将で、
赤備えの元祖と言えます。




⬛【赤備えの系譜】

赤備えの元祖である飯富虎昌が
謀反の意志があるとして
武田信玄に粛清されると、
弟の山県昌景(ヤマガタ マサカゲ)が
赤備えを引き継ぎます。

この山県昌景の率いた赤備えが
三方ガ原の戦いで
徳川家康を完膚なきまでに
叩きのめし、
その勇猛さを天下に知らしめました。

後に、
織田信長により武田家が滅ぼされ、
主を失った武田家臣団を
徳川家康が招き入れるのですが、
それは三方ガ原で
武田家臣団の勇猛さを
目の当たりにしていたからだと
されています。

そして、徳川家康は、
招き入れた武田家臣団を
徳川家中でも武勇に優れていた武将、
井伊直政の配下に組み込みます。

この時、
山県昌景 隊の赤備えの軍装も
一緒に取り入れたとされています。

こうして武田の遺臣と赤備え、
井伊直政の軍勢が合わさり

“井伊の赤鬼”と恐れられた
『井伊の赤備え』が誕生します。




⬛【真田の赤備え】

一方、
真田信繁(幸村)は
祖父の真田幸隆の代から
武田信玄に仕え、
父の真田昌幸も武田家の家臣でした。

そのため幸村は、
大坂ノ陣が始まる時に
自軍の軍装を朱一色に統一し、
真田の赤備えを作り上げます。

勿論、赤備えの導入は、
士気を鼓舞するという目的も
あったと思いますが、
武田の系譜を受け継ぐ幸村としては
それ以上に飯富虎昌、山県昌景らの
武田家の武勇に対する尊敬の念が
あったのかもしれません。

それは信繁という名前が、
武田信玄の弟で
名将として名高い
武田信繁から取っている事でも
分かります。

こうして真田信繁が大坂ノ陣で
赤備えを率いた事で、
武田家の流れを受け継ぐ

信繁の赤備えと、

武田家の遺臣を組み込んだ

井伊家の赤備えの対決が
行われる事になります。




⬛【真田丸の攻防】

真田丸は
武田流 築城術にみられる
丸馬出しと呼ばれる作りで、
半円形の堀を作り
その両サイドから
出撃できるようにした出丸です。

真田丸(丸馬出し)は、
敵が出丸を取り巻く堀から
侵入を試みると、

出丸の中から鉄砲を撃ちかけられ、
横の入口に回り込んで
侵入しようとすると、
城壁から鉄砲を撃ちかけられる
という造りになっています。

この守る側が有利な真田丸に
真田信繁は
前田利常や赤備えを継承した
井伊直孝を誘い出し、
完膚なきまでに叩きのめしています。

この真田丸での赤備えの戦いは、
父の真田昌幸 譲りの智略を発揮した
信繁の完勝という結果になりました。




⬛【大阪夏ノ陣】

大阪冬ノ陣では、
大敗を喫した井伊直孝でしたが、
大阪夏ノ陣では、先鋒を務め、
木村重成、長宗我部盛親の軍を
打ち破る活躍を見せています。

そして豊臣秀頼と淀の方を
自害に追い込むなど
冬ノ陣の失敗を取り戻すかの様な
働きを見せます。

一方、
この大阪夏ノ陣で、
真田信繁が率いた赤備えは

徳川家康 本陣に
決死の突撃を敢行し、
家康の本陣に突入。

大将の居場所を示す馬印を倒し、
家康に自害を覚悟させるなど、
あと一歩のところまで
家康を追いつめています。

しかし、運は家康に味方し、
度重なる突撃で体力を消耗していた
真田信繁は、
松平忠直の武将に打ち取られて
しまいます。


この大阪夏ノ陣での
真田信繁の活躍は、
諸将にも語りつがれ、
『日本一の兵』(ヒノモトイチ ノ ツワモノ)と
称されたと伝わります。