「村木城ノ戦い」  ~1月24日の出来事~ “信長、村木砦を落とす” | 歴史ブログ

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~1月24日の出来事~

【村木城ノ戦い】

天文 二十三年(1554) 1月24日、
織田信長が今川方の
尾張・村木城(砦)を激戦の末に落とす。





当時、駿河の太守・今川義元は
尾張・緒川城 (愛知県東浦町)の
水野信元 攻略を策し、
また尾張侵攻の前進基地をも兼ね、
同城に対する付城として
村木城(砦)を築き、
松平甚太郎家忠を守将として
岡崎衆、駿河衆を入れました。

ちなみに、
徳川家康の生母・於大ノ方は
享禄元年(1528)に
水野忠政の娘として
この緒川城で生まれています。

さて、
緒川城の水野信元から
援軍の要請を受けた織田信長は
これに応じますが、

当時、
信長は家中を纏め切れておらず、
実際の所は、
とても救援に向かう余裕などない
状態でした。

しかし、
今川方による村木砦 構築により
刈谷城(刈谷市)との連絡を
絶たれており、
放置すると家の存続に関わる危機が
訪れる事は明らかです。

信長は単独で救援に向かい
今川勢と戦うには無理があると判断、
岳父の斎藤道三に援軍派遣を
要請しました。

これを受けた道三が
重臣・安藤守就に一千の兵を与えて
尾張に差し向けると、
信長は正月二十一日に
那古野城(名古屋市中区)を出陣、
叔父で小豆坂・七本槍の一人として
武名を高めた織田孫三郎信光と共に、
翌日に折からの暴風雨の中を
熱田から渡海し知多半島西岸に至り、
緒川城へと向かいました。

村木城は結構堅固な作りでしたが、
信長は、この日の早朝より
城攻めを開始しました。


東の大手からは水野勢が、
西の搦手からは信光勢が攻め込み、
信長勢は当時、新兵器であった
鉄砲隊を率いて
大堀の巡らされた南から迫ります。


城兵も必死に抗戦し
信長の小姓が多く討死するなど
激戦となりましたが、
夕刻になり
ようやく城を落とす事に成功しています。


織田勢の猛攻に
“刀折れ、矢が尽きた守将・「松平甚太郎家忠」”

(守将・松平甚太郎家忠)