~1月23日の出来事~
【織田信長、足利義昭に詰問状】
元亀元年(1570) 1月23日、
織田信長が将軍・足利義昭に
五箇条の詰問状を送りつけ、
言動を強く非難する。
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足利義昭は、
兄の室町幕府十三代将軍・足利義輝が
暗殺された際、
側近の細川藤孝たちの活躍で
幽閉されていた
大和・興福寺 一乗院を抜けだして
近江、若狭、越前と渡り歩きます。
やがて、織田信長の援助を得て
永禄十一年(1568)十月十八日、
ついに念願の将軍位に就任しますが、
実権は信長が握っていました。
義昭は直ちに信長を
管領にしようとしますが断られます。
しかし翌年の正月 早々に
三好三人衆が義昭を本國寺に襲うと、
直ちに信長はこれを撃退し
義昭の新邸の建築を始めるなど
積極的に動きました。
それでは副将軍にと考えた義昭は
正親町天皇に働きかけ、
三月には信長に対して
天皇の綸旨も出されていますが、
信長は奉答を避けました。
四月、信長が帰国する際には、
涙を流して尽力に感謝した
義昭ですが、
信長が不在となるや
上杉輝虎(謙信)に
武田氏との和睦を勧め、
また、
本願寺に対しては
加賀の一向一揆と越前・朝倉氏との
和睦を命じるなど
活発に動き始めます。
この為、
義昭に重要な政治活動は
して欲しくなかった信長との間に
亀裂が入り、
十月に両者は衝突しました。
十一月八日には
公家の山科言継が
岐阜へ下向していますが、
これは天皇の内意を受けて
両者の調停を図ったものと
思われます。
そして、この日、
信長は義昭に対し
五ヶ条ノ詰問状(和解の条件)を
出しました。
内容はざっと次の通りです。
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1.諸国に内書を出す時は
必ず信長の添え状をつけること。
2.従来 下知した裁許は、これを破棄、
再考の上で訂正すること。
3.有功の士を賞する時に
土地がない場合は
信長の分国内でも与えること。
4.政務を委任された上は
将軍の意見を待たず
信長が自由に処分できること。
5.禁中(御所)には
油断なく勤めること。
見て分かる通り、
義昭にとっては屈辱的な内容でした。
義昭は、
これを受けて一旦は落着しますが、
内心は面白いはずがありません。
やがて、
信長と再び衝突した義昭は
天正 元年(1573)七月に
京都を追われて河内へ逃れ、
ここに室町幕府は滅亡します。