「武田信虎 誕生」 ~1月6日の出来事~ | 歴史ブログ

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歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。


~1月6日の出来事~

【武田信虎 誕生】

明応三年(1494) 1月6日、
武田信虎が生まれる。
(武田信玄の実父)





武田信玄といえば、
「戦国大名」の最右翼たる人物と
言っても過言ではありません。
その信玄の父が信虎です。

信虎はこの日、
信縄の嫡子として
甲斐・岩下館に生まれました。

永正四年(1507)二月に
信縄が没すと、
信虎は家督を嗣ぎ
甲斐 武田氏・十八代 当主と
なりました。

信玄の時代には
甲斐国は安泰でしたが、
信虎の時代には二度 危機が訪れます。

一度目は、
永正十二年(1515)の
大井信達 謀反、

二度目は、
大永元年(1521)の
福島(クシマ)正成 侵攻です。

大井信達 謀反の際には、
信達と結んだ 駿河の今川氏親が
重臣・福島正成を加勢として
送り込み、
兵力に劣る信虎は苦戦します。

しかし、反撃に転じ、
福島勢を勝山城に押し込めて
兵糧攻めにすると、
氏親との間に和議が成立しました。

その際、活躍したのは、
氏親から差し向けられた連歌師、
宗長というから驚きです。

当時、
連歌師は京都の文化に詳しく、
更に諸国の大名らに
指南して回るため、
自然と諸方の情報にも通じており、
貴重な情報源としても
大切に扱われていたのです。

ともあれ、
信虎は信達とも和を結び、
長女を室に迎えました。

これが大井夫人で、
信玄、信繁、信廉の母となります。

二度目の福島正成 侵攻の際は、
国人衆が離反した事もあり、
信虎の兵力はわずか二千という
有様でした。

当然、劣勢となりますが、
「飯田河原ノ戦い」では
計略を成功させて勝ち、



続いて行われた
「上条河原ノ戦い」では
福島正成を討って
危機を乗り越えています。

しかし信虎は、
天文十年(1541)六月、
駿河 滞在中に
信玄により甲斐から締め出され、
信玄が当主となりました。

信虎・四十八歳。
以後、二度と甲斐の土を踏む事なく、

天正二年(1574) 三月五日、
信濃・高遠に八十一歳の生涯を
終える事になります。

その時、
息子の信玄は既に世を去っていました。