「掛川城ノ戦い」  ~12月27日の出来事~ “今川氏、滅亡” | 歴史ブログ

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【掛川城ノ戦い】

永禄十一年(1568)12月27日
徳川家康が駿府を追われた
今川氏真を掛川城に攻める。





今川義元が「桶狭間ノ戦い」で
織田信長に討たれて以来、
駿河・今川氏は斜陽の一途を辿ります。

義元の後を嗣いだ氏真は
統率力に欠け、
多くの国人衆が離反して
勢力は次第に衰えました。

更に東からは武田信玄、
西からは徳川家康の圧迫に遭い、

ついに、
この年の十二月十三日には
武田信玄により
駿府今川館(静岡市)を追われ、
重臣・朝比奈泰朝の拠る
遠江・掛川城(静岡県掛川市)に
難を逃れます。

しかし、それも束の間、
今度は徳川家康の攻撃を受ける事に
なります。

この日、家康は掛川城を囲み、
以後 五ヶ月に及ぶ
長い戦いが開始されました。

初めは
目立った動きはありませんでしたが、
家康は
翌年 正月十二日に総攻撃をかけました。

家康勢は
天王山の掛川古城を落としますが
二十三日には城兵が反撃、
ここに天王山を巡る
激しい戦いが繰り広げられました。

日を経るごとに
双方の死傷者が増大する
激戦となりますが、
朝比奈泰朝は
奮戦して持ちこたえます。

三月五日には家康自身が出馬して 
激しく攻め立てますが、
攻め落とす事は出来ませんでした。

事態は家康にとって
不利な状況に進みます。

家康が掛川城に手こずっている間に
武田信玄が不穏な動きを
見せ始めたのです。

これ以上、戦いを長引かせては
面倒になると感じた家康は
方針を変更、
奥平定能らの勧める講和策を
採用する事にしました。

五月十七日になって講和が成立し、
泰朝は掛川城を明け渡し、
今川氏真は海路・蒲原へ出て
伊豆戸倉城へと向かいます。

家康は掛川城に石川家成を入れて
護らせ、
ここに戦国大名、
駿河・今川氏は滅びました。

氏真は
妻の実家である小田原の
北条氏のもとに身を寄せますが、

元亀元年(1570)十月に
北条氏康が没して氏政が後を嗣ぐと、
武田方の計略により
暗殺の危険が身に迫った為、
氏真は浜松の家康を頼って
逃げ出します。

家康はこれを受け入れ、
氏真は以後、
家康の保護を受ける事になりました。

しかし、悲願の今川氏再興は
ついに果たせず、
氏真は後に、江戸に移り住んで
慶長十九年(1614)十二月に
生涯を終えました。
ちなみに、
今川氏は氏真の孫・直房の時に
高家に列せられています。