「徳川家康、誕生」  ~12月26日の出来事~ | 歴史ブログ

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~12月26日の出来事~

【徳川家康、誕生】

天文十一年(1542)12月26日、
徳川家康が岡崎城主・松平広忠の
長男として生まれる。





江戸幕府 初代・征夷大将軍となった
徳川家康は、
この日、
三河岡崎城主(愛知県岡崎市)・
松平広忠の嫡男として生まれました。

幼名を竹千代、
元服後に松平元信、
のち元康と名乗っています。

家康の性格を表した歌として
「鳴かぬなら、鳴くまで待とう、時鳥」
という有名な歌がありますが、
家康は同じく天下人となった
豊臣秀吉とは好対照の生き様で、
幼年時の不遇を家臣の結束で乗り切り、
以後、
まさに「鳴くまで待とう」の通り
慎重に足元を固めつつ
勢力を伸ばしていきました。



この稿では、
家康の幼年時代を記してみたいと
思います。

家康が生まれた当時、
松平氏には内紛もあり、
加えて東には駿河の今川義元、
西には尾張の織田信秀が
虎視眈々と三河を狙っており、
松平氏は危機に瀕していました。

同十六年十月、
父・広忠が、織田方に通じた
松平忠倫を殺害すると、
怒った信秀は岡崎城へ総攻撃を
かけようとしました。

広忠は駿河の今川義元に
救援を依頼しますが、
その駄目には竹千代を人質として
差し出さざるを得ませんでした。

竹千代は駿府へ向かう途中に
織田方に内通した戸田康光に奪われ、
信秀のもとに送られ監禁されました。

しかし、ここで竹千代は
若き織田信長に出会い、
信長も家康の人間を認めます。



後には猜疑心の強かった信長が
唯一信用したのが家康と言って良く、
二人の強固な同盟関係は
信長が滅ぶまで続くわけですから
人生何があるか分かりません。

更に同十八年三月、
父・広忠が
家臣の岩松八弥に殺害されると、
今川義元は岡崎に兵を送って
安祥城を攻め、
守将の織田信広を生け捕って
竹千代と交換しました。

竹千代は一旦 岡崎へ戻ったものの
すぐに駿府へ送られ、
今度は今川氏のもとで
十二年に及ぶ人質生活を送ります。

しかし、
ここでも不幸中の幸いと言える事が
ありました。

今川氏の参謀というより
執権と言って良い名僧・太源雪斎の
薫陶を受けたのです。

雪斎は軍・政・外交、何れにも秀でた
今川氏 随一の頭脳の持ち主でした。

竹千代は雪斎から読み書きから
兵法に至るまで教えを受け、
これが後の家康の人格に
良い意味で大きな影響を与える
事になります。

竹千代は、
弘治元年(1555)三月に元服、
今川義元の偏諱を受け
松平二郎三郎元信と名乗りますが、
同三年正月には
蔵人元康と改名しています。

このまま
今川氏の家臣となってしまうかと
思われた永禄三年(1560)五月、
上洛の軍を発した今川義元が
織田信長に討たれるという
「桶狭間ノ戦い」により、
元康の運命は大きく変わりました。

程なく元康は
今川家からの独立に成功、
信長と同盟を結ぶと同時に
松平一族を次々と帰参させ
家臣団を形成しました。

同六年七月には、自立の証として、
義元から拝領した「元」の字を捨て
家康と改名、
更に同九年には徳川姓に改め、
ここに「徳川家康」となり、
後に天下統一を成し遂げ、



江戸幕府 初代・征夷大将軍に就任し、
二百数十年に及ぶ天下磐石の礎を築いたのです。