「前田利家 誕生」  ~12月25日の出来事~ | 歴史ブログ

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歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。


~12月25日の出来事~

【前田利家 誕生】

天文七年(1538) 12月25日、
加賀百万石として知られる
金沢・前田藩の祖・前田利家が
生まれる。
父は利昌。




織田信長の近習から出世し、
豊臣秀吉を支えて
加賀百万石の祖となった前田利家は、

尾張・荒子城(名古屋市中川区)で
二千貫を領した土豪・縫殿助利昌の
四男として、
この日、荒子城に生まれました。

利家は幼名を犬千代といい、
同二十年一月に
那古屋城主・織田信長に仕えて
五十貫を与えられ、
その年八月には元服して
孫四郎を名乗り、
のち又左衛門と称します。

利家は早くもその年に初陣を迎え、
以後、数々の戦いで槍を得物に
戦功を挙げたことから、
「槍の又左」の異名を取りました。

しかし二十二歳になった
永禄二年(1559)六月、
突然、不幸が彼を襲いました。

些細な事から
信長のお気に入りの茶坊主・拾阿弥と
争い、
斬り殺してしまったのです。

信長は激怒して
利家を成敗しようとしますが、
柴田勝家らの取りなしで
一命は助けられたものの、
利家は浪人するはめになって
しまいました。

じっと帰参の機会が訪れるのを
待っていた利家に、
大きなチャンスが訪れました。

翌年五月、
信長はわずか二千の兵で
駿河の今川義元の大軍を
尾張・田楽狭間に破った事は
広く知られています。
(桶狭間ノ戦い)

利家は密かに従軍し
敵の首三つを挙げる活躍をしましたが、
帰参は出来ませんでした。


帰参が叶ったのは翌年 五月のこと、
斎藤達興との間に行われた
「森部ノ戦い」において、
利家はまたもや従軍して
「首取り足立」の異名を持つ
美濃・斎藤家の豪傑・足立六兵衛を
討ち取り、
この戦功を信長は認め
ようやく帰参が許されました。

その後も数々の戦いで活躍、
永禄十一年(1568)には
赤母衣衆に抜擢され、

翌年には信長の命により
父・利昌の遺領を嗣いでいた
兄・利久に代わり
前田家の当主になりました。

天正三年(1575)以降は、
北陸方面 司令官の柴田勝家に
与力として付けられ、
越前・府中城主(福井県武生市)となり
三万三千石余りを領し、

同九年には
能登一国を与えられます。

やがて、勝家と羽柴秀吉が対立し、
近江・賤ヶ岳に激突すると、
利家は突如戦線を離脱して退却、
士気の低下した柴田勢は
大敗しました。

勝家は間もなく
居城・北ノ庄城(福井市)で
自刃する事になります。

戦後、利家は秀吉から
旧領・能登に加えて、
加賀二郡を加増されますが、

同十三年八月に
富山城の佐々成政を攻め降すと、
利家の子・利長が越中三郡を与えられ、

ここに、
「加賀百万石」の基礎が形成されました。



利家は、
秀吉政権下の重鎮として
豊臣家 五大老に就任、
秀吉を支えました。

しかし、
慶長二年(1597)頃から病に冒され、
翌年八月に世を去った
秀吉の後を追うように、

慶長二年・閏三月三日、
大坂城にて六十二歳の生涯を
終えています。