「徳川家康、武田信玄と決戦へ」 ~12月21日の出来事~ | 歴史ブログ

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歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。


~12月21日の出来事~

【徳川家康、武田信玄と決戦へ】

元亀三年(1572) 12月21日、
徳川家康が信玄 西進の報を聞き、
浜松城で信長 援軍の平手汎秀らと
軍議を開く。





この日は、
世に名高い三方原合戦の前日に
当たります。

翌日の戦いでは
徳川勢は武田勢に蹴散らされますが、
逆に武田信玄に果敢に攻めかかった
家康の評価は上がりました。

そして、この少し前、
徳川勢と武田勢の小競り合いが
ありましたが、
その中で ひときわ光彩を放った
武将がいました。

その武将の名を
"本多平八郎忠勝"と言います。

その小競り合いである
「一言坂ノ退却戦」は、
十月十三日の事なのですが、
三方原の事はまとめて次回に譲り、
今日は一言坂での忠勝の活躍を
少しご紹介したいと思います。

忠勝は、
松平氏譜代の家臣・本多忠高の子として
天文十七年(1548)に生まれました。

幼名を鍋之助といい、
元服後に平八郎忠勝と称しました。

家康がまだ松平元康と名乗っていた頃から
小姓として仕え、
十三歳で元服すると
直ぐに初陣(大高城攻め)を迎え、
以後、生涯五十七度の戦いに
一度も傷を負わなかった事は
有名です。

さて、
この年の十月に武田信玄は
念願の西上を開始、
迎え撃つ家康は
忠勝始め大久保忠世、内藤信成らに
全兵力の半分に当たる四千の兵を
添え、
見付(静岡県磐田市)方面へ
威力偵察を行わせました。

これを見つけた信玄は、
「あの敵を逃すな。直ぐさま討ち取れ」
と指示、
武田勢は忠勝らに迫ります。

その様子を見た内藤信成が
「今ここで武田勢と戦うのは
極めて危険だ」
「何としても浜松へ戻って
織田殿の加勢を得て戦うべきだが、
こんなに敵と近いと
無事に引き上げさせるのは
自分には無理だ。
誰か兵の指揮をしてくれないか」
と言うと、

忠勝が進み出て
「私がやりましょう」と引き受けました。

二十五歳の青年武将・忠勝は
この日、黒糸の鎧に鹿角を打った
兜を着用、
その手には
名槍「蜻蛉切」が抱えられていました。

従士大兼彦次郎らを
見付の町へ差し向けて
焼草を道に積ませ、
合図ですぐ火を放つ手はずを
整えた上で、
単騎敵味方の間へ乗り入れました。

忠勝が鮮やかに士卒を指揮して
駆け回ると、
武田勢からもその見事な武者振りに
感嘆の声が上がりました。

その隙に忠勝は火を付けさせ、
煙に紛れて退却していきますが、
そこへ武田の先鋒・山県昌景が襲いかかり
一言坂の下まで追いすがりました。

忠勝は弓鉄砲を駆使して
敵を食い止め、
またしても敵味方の間を
駆けめぐります。

そして忠勝は無傷で軍を返す事に成功、
出迎えた家康は
「今日の働きは平八郎とは思えぬ。
 正に八幡大菩薩の化身じゃ」
と最大級の讃辞を送りました。

武田勢も忠勝の働きを讃え、
信玄の近習・小杉右近助が
一首の歌を書いて戦場に立てたと
言われます。

「家康に過ぎたるものは 二つあり、
 唐の頭に 本多平八」

忠勝に関する有名なこの落首は、
この出来事の際に詠まれたものです。