【新姓「豊臣」姓、誕生】 ~12月19日の出来事~ “秀吉、名実ともに天下人となる” | 歴史ブログ

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~12月19日の出来事~

【新姓、「豊臣」 姓 誕生】

天正十四年(1586) 12月19日、
羽柴秀吉が「太政大臣」に任ぜられ、
新姓「豊臣」姓を賜る。





豊臣秀吉は
尾張・中村の一農民の身から
織田信長に仕えて武士となり、
信長の晩年には
織田家中でも一・二を争う
重臣となりました。

そして信長に代わり
順次諸国を平定、
ついには天下を統一する事は
広く知られています。

秀吉は、
天正 十三年(1585) 七月十一日、
「従一位・関白」に任ぜられました。

その際、
秀吉は藤原姓を名乗りますが、
既存の姓を嫌って
同年九月九日に新姓「豊臣」氏の
下賜を奏請、
勅許を得たとする説と、

この日、
「太政大臣」に任ぜられたのを機に
豊臣姓を称したとする説があり、

ここでは、
後者の説を採用する事にします。

秀吉は信長の没後
ただちに明智光秀を討ち、
同十一年四月に
織田家中で対立していた
柴田勝家を滅ぼすと、
九月には大坂に築城を開始しました。

翌十二年には、織田信雄と、
その加勢に応じた徳川家康と
尾張 小牧・長久手で衝突しますが、
信雄と単独で講和を結んで
家康との全面軍事衝突は
回避しました。

同十三年になると紀州平定を行い、
九月には
大和の筒井定次を伊賀に移して
弟・秀長を代わりに置き、
着々と足元を固めていく一方で
徳川家康の懐柔に努め、

翌十四年 五月には
秀吉の妹・旭姫を
徳川家康に嫁がせるなど
何とか臣下の礼を取らそうと、
あれこれ策していました。

この年の四月、
豊後の大友宗麟が秀吉のもとを
訪れて
島津氏 討伐を要請、
九月~十月には
先鋒として仙石秀久を軍監とする
長宗我部元親、十河存保たちを
豊後へ派遣しています。

つまり、
この日は島津征伐の最中と言っても
良い日なのですが、
(秀吉本軍は十五年三月に出陣)

十月二十七日には
秀吉にとって願ってもない
出来事があったのです。
それは徳川家康の上洛・臣従でした。

さんざん秀吉を手こずらせた
家康でしたが、
そうと決まれば、
これ以上ない心強い味方です。

家康の臣従がなければ
秀吉も九州へは出陣していなかった
可能性もある程、
大きな出来事でした。

早速、
翌月 四日には家康と会談を行い、
大名の私闘を禁止する
「関東惣無事令」を決め、
その権限を家康に委ねています。

もはや秀吉にとっては
天下を平定したのも同然だった
でしょう。

そしてこの日、
秀吉は「太政大臣」に任ぜられ、
新姓「豊臣」を称します。

一介の農民から成り上がった秀吉は
同十八年に小田原・北条氏を滅ぼし、
その足で奥州をも平定、
ついに名実ともに「天下人」と
なりました。







⬛【備 考 1】

四国討伐の最中の7月11日には、
予てから朝廷で紛糾していた
関白職を巡る争い(関白相論)に介入し、
近衛前久の猶子となって
関白宣下を受ける漁夫の利を得た。




⬛【関白辞令の宣旨】

權大納言 藤原朝臣 淳光宣、
奉勅、萬機巨細、宜令內大臣關白者

天正十三年七月十一日
掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉 奉

「足守木下家文書」


●【関白辞令の宣旨、読み下し】



権大納言 藤原朝臣 淳光宣(ノ)る。
勅(ミコトノリ)を奉(ウケタマワル)るに、
万機(バンキ)巨細(コサイ)、
宜しく内大臣をして関白にせしむべし者(といえり)。

天正13年7月11日
掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉 奉(ウケタマワル)る





⬛【関白辞令の詔書】

詔、以庸質當金鏡、
妥政績於通三、
以愚昧受瑤圖、增德耀於明一、
夢不見良弼、誰能諫言、
內大臣藤原朝臣、名翼翔朝、威霆驚世、
固禁闕之藩屛、忠信無私、
居藤門之棟梁、奇才惟異、
夫萬機巨細、
百官惣己、皆先關白、
然後奏下、
一如舊典、庶歸五風十雨之舊日、
專聽一天四海之艾寧、
布告遐邇、俾知朕意、
主者施行、

天正十三年七月十一日

「天正六年以來關白詔勅書」




●【関白辞令の詔書、読み下し】
詔(ミコトノリ)して、
庸(ヒトトナリ)を質(モチ)いて金鏡に当て、
政績(セイセキ)通三(ツウサン)に妥(ヤスン)ず、
愚昧(グマイ)を以て瑤図(ヨウズ)を受け、
徳耀(トクヨウ)明一を増す、
夢 良弼(リョウヒツ)を見(アラワ)れざれば、
誰か能く諫言を納れむ、
内大臣 藤原朝臣、
名は朝(ミカド)を翼翔(ヨクショウ)し、
威霆(イテイ)世に驚かす、
禁闕の藩屛を固くし、
忠信私無し、
藤門の棟梁に居(スワ)りて、
奇才惟(タダ)異にす、
夫(ソ)れ万機巨細、
百官を己(ミズカラ)惣(ス)べ、
皆先んじて関(アズカ)り白(モウ)す、
然る後、
奏下すること一(モッパラ)ら旧典の如く、
庶(モロモロ) 五風十雨の旧日に帰す、
専ら一天四海の艾寧(ガイネイ)を聴(ハカ)り、
遐邇(カジ)に布(シ)き告げて
朕の意を知ら俾(シ)めよ、
主者施行(シュシャシギョウ)せよ、

天正13年7月11日




天正14年(1586年) 9月9日、
秀吉は正親町天皇から
豊臣の姓を賜り、
12月25日には太政大臣に就任し、

「従一位 関白 太政大臣」となり、
ここにその政権を確立した
(豊臣政権)





⬛【備 考 2】⬛



⬛【従一位】

律令制下では、
太政大臣(正・従 一位相当官)や、
本来は位階の序列に含まれない
令外官である。
「関白」の多くが「従一位」ないし
「正一位」に叙せられた。

また後に、
本来は大臣の職に就く事ができない
公卿(羽林家、名家、半家)が
従一位に昇叙した際には
准大臣が宣下される慣習も定着した。


江戸時代には、
将軍が引退し大御所となり、
更に「太政大臣」に叙せられた場合は
「従一位」に昇叙した。




⬛【関 白】

成人後の天皇を助け
政務を司った重職。

関白は、
「天子の政務に関(アズカ)り  白(モウ)す」
の義で、

平安中期、
藤原基経を この任にあてたのに
始まる。

次第に その職名となり、
天皇が幼少の時は「摂政」、
成人後は「関白」を任ずる慣例となった。

藤原氏がその地位を独占し、
例外は「豊臣秀吉」、秀次の二人のみ。

唐名を執柄(シツペイ)、博陸(ハクロク)
という。




⬛【太政大臣】


⬛【太政大臣】

律令制で、“太政官を総括する”官職。

左・右の大臣の上位に位置するが、
適任者がなければ
欠官とされた(則闕官=ソツケツノカン)
職掌も定められておらず
名誉職としての色彩が濃く、
関白、摂政、内覧などの
宣旨を伴わない限り実権はないもの
とされた。

別称:大相国。