「今川と織田が人質交換」  ~11月10日の出来事~ | 歴史ブログ

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歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。


~11月10日の出来事~

【今川と織田が人質交換】


天文十八年(1549) 11月10日、
今川の捕虜・織田信広と
織田の人質・松平竹千代
(後の徳川家康)の交換が成立する。






天文九年(1540) 六月、
尾張の織田信秀は
三河・安祥城(愛知県安城市)を落とし
西三河へと進出、

以後、
岡崎城(岡崎市)の松平広忠と
一進一退の戦いを演じました。

天文十一年十二月には
広忠に嫡子竹千代(後の徳川家康)が
生まれますが、

その喜びも束の間、
翌年以降には三木城(同岡崎市)の
松平信孝や
佐崎城(佐々木城・同)の松平忠倫、
刈屋城(刈谷市)の水野信元らが
次々と織田方に走った為、
広忠は窮地に立たされました。

同十六年十月、
広忠が計略を用いて
松平忠倫を誅殺すると、
これに怒った信秀は
岡崎城へ総攻撃をかけようと
しました。

広忠は竹千代を人質として差し出し
駿河の今川義元に救援を依頼しますが、
ここから竹千代の悲運が始まります。



三河・田原(田原市)から
海路で駿府へ向かう途中、
竹千代は織田方に内通した
戸田康光に奪われ、
信秀のもとに
送られてしまったのです。

大いに喜んだ信秀は
当座の賞として
康光に銭百貫を与え、
早速、岡崎へ使者を送って
織田方につかなければ
竹千代の命はないと脅しますが、
広忠の答えは毅然としたものでした。



「お互いに久しく戦いを交え、今も止んでいない。」
「当家の小勢で織田の大軍を破ること
数知れず、
一度も雌伏した事がないのは
広忠の武略によるものである。」
「然るに何のために織田家に
人質を送る必要があろうか。」
「子細あって愚息・竹千代は
今川家に人質として出したが、
大欲無道の戸田に奪われ
そちらへ送られてしまったわけで、
私が心より出した人質ではない。」
「我らは今川義元と多年の誼があり、
一子の愛に溺れて不義の振る舞いはできない。」
「愚息の事は信秀殿の心にお任せ致す。
少しも恐れてはおらぬ。」

使者の報告を聞いた信秀は
一時は憤りますが、
いつか役立つ時もあろうと
竹千代を萬松寺 天王坊に
幽閉しました。

天文十八年三月、
広忠が家臣の岩松八弥に殺害され
松平氏が危機を迎えると、
今川義元は岡崎に兵を送り
広忠の重臣たちと評議の上で
安祥城を攻め、
激戦の末に守将の織田信広を
捕らえる事に成功しました。



今川方の大将・太原雪斎が
信広と竹千代の交換を提案すると
織田方もこれを了承、
この日、
笠寺観音(名古屋市南区)の境内で
両者の交換が行われました。

広忠の家臣たちは
竹千代が無事に戻った事を喜びますが、
岡崎城は、もはや今川氏の属城と
化しており、
義元の命により
竹千代は僅か十日ばかりの
岡崎在城の後、駿府へ送られます。