「謀反の狙いは 信長、秀吉の殲滅…?」  ~“電撃作戦”失敗の理由とは~ | 歴史ブログ

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【謀反の狙いは信長、秀吉の殲滅?】
 ~「電撃作戦」失敗の理由とは~



天正10年(1582) 6月2日、
織田信長が家臣の明智光秀に討たれた
本能寺ノ変の直前、
四国最大の大名・長宗我部元親が
光秀の重臣に送った
1枚の手紙が最近見つかり、
話題になった。



直前に迫った
信長の四国派兵を恐れた元親が
信長に従うとした内容で、
信長軍の出撃日と本能寺ノ変の日が
重なるだけに、
関連資料として、より注目される
結果となった。

一戦も辞さない覚悟とみられた元親の
気弱ともとれる意外な内容だが、
ここから光秀が どのように刺激され、
本能寺へ結びついていったのか。
大胆に仮説を立ててみた。




◾【信長の指示に従い…】

信長と元親の関係は当初は良好で、
光秀を交渉の窓口に
四国で元親が占領した分は
全て所領にしてもよい等とする
信長の約束をとり付けている。

ところが、
元親と争う 阿波の三好氏が
信長に接近して以降、
信長と元親の関係は次第に悪化。

ほぼ四国全土を手中に収めていた
元親に、
信長は土佐と阿波の南半分以外を
全て返還するよう命じる。



当初の約束を反故にされた元親は
信長の命令を拒否し、
天正9年には交渉も決裂すると、
反・織田勢力の毛利氏と同盟を結び、
この時点で信長との戦いは
必至の状態となった。

そして信長が
天正10年5月上旬に四国攻めを決定。

三男・信孝を総大将に
摂津と和泉に数万人を集結させる一方、
先陣の三好康長が
阿波北部の城を攻撃。

長宗我部勢は
ほとんど抵抗する事なく、
阿波南部に退却している。

手紙はこういう状況の中、
元親が、嘗て信長との交渉窓口だった
光秀の筆頭家老で、
婚姻などを通じて親類関係にあった
斎藤利三 宛てに
5月21日付で送っている。

これによると、
阿波の一宮、夷山、畑山の諸城からは
撤退するが、
海部、大西 両城は
土佐の出入口にあたるので、
このまま領地としたい。

信長が甲斐の武田征伐から
帰ってきたら、
従いたい等といった
内容になっている。




◾【光秀の意図】

手紙の日付から
10日後の6月2日に
本能寺ノ変は起き、
ついに信長は光秀に倒される。

この日は
信孝が四国に向けて出撃する日でも
あり、
これは単なる偶然だろうか。

長宗我部、明智 両氏は親族なのだから、
信長の四国征伐を阻止する目的で
密約があったという予測も成り立つ。

しかも、
信長配下の有力武将は
他の戦いに明け暮れて、
京都には誰も不在といった
好条件が揃っていた。

信心深い光秀と
比叡山を焼き打ちにする信長とは
水と油。



光秀が敬う朝廷を信長は軽視し、
自分の領地の近江、丹波までも
召し上げようとする信長を
光秀は、どうしても許せなかったのでは……

そこで、
信長を無き者にする決意をするが、
光秀が自分に味方する勢力などを
考えるにあたり、
まず思い浮かんだのが、
室町幕府・第十五代将軍の
足利義昭だったのではなかろうか。

光秀が嘗て仕えていた義昭は
信長に京都を追放されて
毛利領の備後・鞆(トモ)に
身を寄せていたとはいえ、
この時は、
まだ征夷大将軍の地位のままである。

この義昭を担ぎ出し、
良好な関係を築いてきた
朝廷からの支持を得て
幕府を再興すれば、

嘗ての足利氏 家臣・細川藤孝や
義昭の面倒をみてきた毛利氏の
援助も期待できる。

更に、
相当に切羽詰まった
心情が伝わってくる
元親の手紙を見た光秀は
「信長を倒す事を条件に、
味方になってくれるだろう」
と確信したに違いない。

この為、
元親の手紙を受け取ると
直ぐに光秀は、
「四国出撃の日の6月2日に
信長を討つので、手を貸してほしい」
といった内容の手紙を
元親に送った可能性もある。

それどころか、
時間も押し迫っていたので、
正確に作戦を伝える為、
直接に家臣を四国へ
赴かせたかもしれない。




◾【標的は秀吉?】



ここで考えられる元親の役割は
やはり、毛利攻めで備中高松城にいた
羽柴秀吉の背後を突く事だったと
推測する。

長宗我部軍は、
「一領具足(イチリョウグソク)」といわれる、
普段は領地で田畑を耕している
半農半兵の農民を主体としている。

戦力は農民同士という事で
季節的に農期での戦はできない。
また、
農民が武装しているだけなので
戦力的には弱い。

信長軍の兵は戦闘の為に
録(給料)を貰っている兵。

当然、
春夏秋冬の季節に関係なく
戦が可能で、
更に戦闘の為の調練を
うけているので、
戦力的には強い。

四国攻めの兵は信長の死で
多少は混乱したものの、
直ぐに立直り将の指揮に従っている。


どの兵をと相対するのがよいか
と考える元親。

屈強な信長の兵、援軍の毛利軍。
元親からすれば
備中にいた3万の秀吉軍を
標的にすればよい
という事になる。

しかも、秀吉軍と睨み合うのは、
長宗我部と同盟関係にある
約4万の毛利軍である。

本能寺の直前まで
信長の威光の下で
元親と戦っていた三好軍が
信長の死で動揺している隙に、
長宗我部の家臣
池頼和(イケヨリ カズ)率いる水軍の力を
借りて
秀吉の背後をつけば、
勝利の可能性も高くなる。

但し、
元親に問題になる事が一つあった。

農民が兵の主力となっていた
元親軍にとって、
5月から6月初旬は
田植えの時期にあたる事だった。

「強力な信長の兵に対し、
どれだけの兵が揃うのだろう?。」

あの気弱ともとれる
光秀への書状の裏には、
こういった背景も隠されて
いたのではないだろうか。

この辺りから、
光秀の思惑のほつれが
始まったようにも思う。