「武田信玄が、諏訪大社に戦勝を祈願」  ~11月9日の出来事~ | 歴史ブログ

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~11月9日の出来事~

【信玄が、諏訪大社に戦勝を祈願】 

永禄十二年(1569) 11月9日、
武田信玄が諏訪大社・上社(カミシャ)に
起請文を捧げ、戦勝を祈願する。



武田信玄は、この年の十月六日に、
三増峠において北条軍を撃破、
甲斐へと戻りました。

続いて、
駿河侵攻に向け 二万の軍を率いて
出陣するのですが、
それに先立ち 此の日に、
諏訪大社の上社に駿河・伊豆平定と
越後の潰乱を祈って
起請文を捧げました。

信濃国・一之宮として知られる
諏訪大社は、
上社と下社から構成されており、
諏訪湖の南にある上社には
本宮(長野県諏訪市)と前宮(同茅野市)が、
北にある下社には
春宮(同下諏訪町)と秋宮(同)が
それぞれあります。



つまりは、
四つの社を総称して
諏訪大社と呼んでいるわけです。

一般には諏訪大明神とも呼ばれ、
軍(イクサ)と水の神として
信仰を集めていました。

信玄は出陣の前には
よく寺社に戦勝を祈願しています。

信仰心から来る行動であるのは
勿論ですが、
兵士たちの士気を高めるのにも
大きな効果が期待できたから
でしょう。

自らを毘沙門天の生まれ変わりと
信じたという上杉謙信も
度々、戦勝祈願を行っていますが、
その頻度から見ると
信玄は全国の戦国武将の中でも
筆頭と言っても過言ではありません。

そして、重大な戦いの前には、
必ずと言ってよい程
諏訪大社上社に祈願をしていたようです。

信玄は かつて、
薄幸の美女として知られる愛妾
諏訪御料人がいました。

諏訪御料人は
諏訪大社の大祝(オオホウリ)・諏訪頼重の娘で、
父・頼重が信玄に滅ぼされた後に
信玄の側室となり、
天文十五年(1546)には
勝頼を生んでいます。

彼女は弘治元年(1555)十一月に
若くして亡くなっており、
信玄が諏訪社に祈願した事の裏には、
彼女への断ち切れない思いが
あったのかもしれませんが、
こればかりは
信玄本人に聞いてみないと
分かりません。

この後、
信玄は二万の軍勢を率いて
三度目になる駿河侵攻を開始、
北条氏の属城
蒲原城(静岡県蒲原町)を落とし
駿府へ迫りました。

駿府城(静岡市)は前年に
一旦占拠して
今川氏真を追い出したものの、
取り返されていたからです。

この時には
今川氏の将岡部正綱らが
籠もっていましたが、
信玄が臨済寺の鉄山宗鈍を使者とし
降伏開城を説かせると
岡部はこれを受け入れて開城、
程なく信玄は駿河の大部分を
手中にしています。




 



話は、変わりますが、
武田信玄に諏訪神社(大明神)といえば、
「諏訪法性兜」の存在である。


◾【頂には諏訪明神像】

信玄が所用したと伝わる兜は
数点知られている。

その中で最も有名なものが
諏訪湖博物館が所蔵する
「諏訪法性兜」です。



戦国時代を代表する甲冑鍛冶で
小田原を本拠地としていた
増田明珍信家の作とされる筋兜で、
鬼面をかたどった黄金の前立てに
見事な白毛をまとい、
「白熊(ハグマ)の兜」とも呼ばれている。

信玄は、
その兜の頂に10㎝弱の
諏訪明神像(甲州市・雲峰寺所蔵)を
取り付け戦いに臨んだといわれている。



しかし、この像については、
その由来や材質など全てが
謎に包まれている。
甲州市教育委員会では
「言い伝えが残るのみ。
本格的な調査はこれから」という。

諏訪湖博物館の調査によると、
兜は横40cm、
奥行き36cmの大きさ。

前立ての高さ18cmで木製の角が付く。

主要構造の鉢は
24.5cm×19.5cmの楕円形で、
深さは11.5cmあり
戦国時代の特徴を備えているという。
一方、他の部分は後世に、
かなり手が加えられている。

吹き返しには印伝皮が使われ、
武田菱の紋が入っている。

首から襟の防御となる錏(シコロ)には、
「×」印のひし縫いが見られ
実戦向きではなく、
装飾的な風合い強い。

諏訪湖博物館の宮坂徹館長は
「江戸時代前半に現在の形として成立したのでは」とみている。




◾【根拠は甲陽軍艦】

諏訪法性兜は、
武田側の立場で書かれた軍学書
「甲陽軍鑑」に登場する。

「信玄が勝頼に御譲りし扱いを許しなされた」兜が
その根拠だ。

いくつかあるとされるが、
諏訪湖博物館の兜が最も有名だ。





◾【何故、諏訪法性兜なのか…】

武田信玄は、
諏訪大明神の旗を軍旗とし
諏訪法性兜を被る事により、
大義名分と家臣団の団結を
得ていたのです。